絵手紙は、人生の回帰剤/新潟県三和村 保坂邦夫
  私の手もとに五歳の女の子から届いた一枚の絵手紙がある。はがきいっぱいに描かれた笑顔のお日さま、そして力強く「せんせいおはよう」と書かれている。私はこの五歳の女の子と楽しく絵手紙で交流している。幼い子の絵手紙から、さわやかな感動をもらっている。このように、絵手紙には不思議な魅力と力がある。日ごろから描き続けている絵手紙について感じていることを述べてみたい。
 絵手紙は昭和60年に小池邦夫氏が提唱され、日本絵手紙協会が創設された。以来、絵手紙は10センチ×15センチという小さな舞台ながら、全国に広がりをみせ、数百万人ともいわれる愛好者がいる。そして現在、学校教育、生涯学習に、老後の糧や生きがいにと幅広い支持を受けている。
 私の絵手紙との出会いは七年前である。山路智恵さんという小学生の絵手紙を見て、そのとりこになった。(山路智恵さんは、小学校入学の日から中学三年生まで一日も欠かさず絵手紙を描き続けた人である)その後、絵手紙協会友の会に入会し、全国各地の絵手紙仲間と50円の心の宅配を続けている。また、地域では上越市八千浦地区の絵手紙仲間と「絵手紙を楽しむ会」を月一回行っている。
 さて、皆さんは絵手紙をどのようにお考えだろうか。あたり前のことだが、絵手紙は絵を描いた手紙である。小池邦夫氏に言わせると、絵手紙は配達文学である。展覧会用にキャンバスに描く汕彩画とは本質的に違う。絵手紙は大勢の人に見てもらう作品としてではなく、あくまでも一対一のかかわりの中で自分の思いを伝える手紙なのである。
 小池邦夫氏は次のようにも問いかけている。「皆さん、絵手紙をかく時は、胸の中に訴えたいような、これだけはどうしてもあの人にこっそり伝えたいという思いを持っているでしょうか」。楽しんで描くことも大事だが、それ以上に相手に伝えたい思いがなければ絵手紙にはならないということを言っている。私はどうかと振り返ると・・・。どれだけ相手に伝えたい思いがあったろうか。絵手紙を創るということは、自分の生き方にかかわるものだということを実感している。
 絵手紙のモットーは『へたでいい、へたがいい』である。この『へたでいい・・・』は、実は絵手紙を描く時に一番やっかいなものである。へたでいいからいいかげんに描けばいいという意味ではない。相手に伝えたい思いがあれば、うまさはいらないということである。私は絵手紙を描くときに、へたでいいんだ、見たまま、感じたままを描こうとおもいつつも、変に構えてしまい、体裁をとることが多い。
 私の手もとに香川智美氏の「ことばの玉手箱」という本がある。香川智美氏は中学二年から絵手紙を描き続け、現在大学生である。その著書の中で「へたでいい、へたがいい」について次のように述べている。
 『絵手紙の、へたでいい、へたがいい』の言葉には深い意味がある。へたというのは、自由の中に生まれたものだから、正しい形というものはない。その日の気持ちや集中力やいろんなことに影響されるため、毎日同じものはできない。それがへたの中にある難しさだ。だから、それを見て感動するのだ。私はへたの中のうまさというものを目指したい。自分の心からわき出るエネルギーをそのまま紙にぶつけ、自分の世界を創り出したい。へたこそ一番難しくやっかいだ。けれどへたの感動は何年たっても人の心を動かす。決して古くさくはないのだ』
 まさに「へたでいい、へたがいい」の意味する中身の奥は深い。
 現在、全国的に絵手紙を学校教育に取り入れようとする広がりをみせている。私も今まで子供たちに絵手紙を数回指導してきた。
 教育活動、とくに総合的な学習の時間に、ぜひ絵手紙を取り入れることでさまざまな面で期待できる。まず、絵手紙にはお手本はいらない。見たまま、感じたままを思いどおりに描けばいい。自分なりの思いで自由に描けることがいい。このことは子供の個性を発揮させる第一歩である。さらに、絵手紙を描くことを通じて、物事をじっくりと観察しようとする能力が培われる。
 また、絵手紙は一対一の表現活動である。絵手紙を通じて心の交流が図られる。心の教育の充実が言われて久しいが、絵手紙の導入により少しでも役立てればうれしい。
 絵手紙のあれこれを述べてきた。きょうも全国各地、地元のあちこちから温かな心が届けられる。絵手紙に出会い、人様に元気を与え、人様から元気をいただく日々である。「動かなければ出会えない」をモットーにきょうも絵手紙を描く。
(上越タイムス寄稿文より)