武藤山治に殉じた青木

昭和9年3月9日、北鎌倉の路上で時事新報社の社長、武藤山治が暴漢に襲われて、2日後に死去したが、その際に同行していた書生の青木 茂(23歳)が、武藤山治の前に身を呈して凶弾を二発受け、即死した。加害者もその場で自殺し、犯行の動機は「火葬場問題の私怨」と報じられたが、当時の捜査当局の調べでによると、背後関係はない模様であると発表している。

武藤山治と言うと鐘紡を思い出す。鐘紡中興の租と言われる鐘紡に貢献した財界人であり、また経済界きって筆の立つ人物でもあった。慶応義塾を卒業後、明治18年に渡米、タバコ製造所の見習い工として学ぶ。帰国後はジャパンガッゼット(現在のジャパンタイムズ)に入社したこともある。明治20年には新聞広告取扱所を創設経営にのりだした。武藤山治の新聞との関わりはこの時に始まる。明治25年に三井銀行に入行し、神戸支店副支配人になる。明治27年に鐘淵紡績株式会社に入社、兵庫支店支配人を皮切りに、大正10年に社長に就任している。大正12年には政界の革新のため「実業同志会」を創立し会長に就任。大正13年に衆議院議員に当選、昭和5年までに三期当選、昭和5年には鐘紡の社長を退き、相談役となる。昭和7年に時事新報社の経営担当者に就任。昭和8年に社団法人国民会館会長に就任。

武藤山治は、凶弾に倒れた日の朝、鎌倉、山ノ内の潤光学園女学校(現北鎌倉女子学園)の隣の別邸を出て、北鎌倉駅に向かう途中に待ち伏せしていた暴漢に出会い、しばらく歩きながら話をしていた矢先に暴漢は「あんまりです。」と叫んで、ピストルを発射した。いつもは執事が武藤山治に同行していたが、その日は風邪で外出できず、青木 茂が偶々執事に代わって、主人公の武藤山治に同行した。元来正義感が強く、日ごろ武藤山治に心酔していた茂は、いざと言う時に身を挺して、主人を護衛せんものと、敢然と暴漢に立ち向かった。主人のために一身を省みずその楯となって、23年の短い生涯を終えた。山治は重体のうちにも青木 茂のことに十分配慮するようにと家族に言い残し、青木 茂の跡を追うように2日後に絶命した。68歳の波乱に富んだ人生であった。

今年1月(1999年)に青木 茂の弟、青木 昇氏が死去した。弟の昇氏が兄の亡き後武藤家から請われて書生として仕えたが、昇氏の通夜の席上で、ひとしきり青木 茂のことが親戚の間で話題になった。席上、従兄弟の一人石井 博氏は言う「今さえよければ、自分さえよければの人が多い時代にこの世の中で人の為になろうとする人なんて、私の近くでは見当たらないのがこの頃です。茂さんの生きた時代は変わっていますが、茂さんの生きた精神は今も大切なものであろうと思う。また私ら一族の誇りでもあると、強く思う。」

忠義で純朴な茂の弟なら間違いないと思って、茂亡きあと武藤家では、昇氏を書生に迎えたものと思われる。昇氏は武藤家の人々から、生前の兄茂の人となりやありし日の思い出を折りに触れ耳にしたに違いない。その昇氏が他界されたことで、65年前の関係者はいなくなったことになる。

青木 茂は 小学校から優等生であり、藤沢中学(現 藤嶺学園)に入学したが、家庭の事情により一年で中途退学している。その後は農業の手伝いをし、兄が出征の間家族のために働いた。19歳の時大正村(現 横浜市戸塚区東俣野町)で、6部落連合弁論大会が行われた時に、県下でかって二等に入賞した参加者をおさえて優勝している。一度こうと決めたら貫徹する一途で、負けず嫌いの性格でもあった。

親類の伝で武藤家の書生になってからは、給料の中から5円を差し引いてあとは親に送金するという孝行ぶりを発揮した。親が、洋服など身の回りの物にもう少し小遣の増額を勧めても頑ぜず、最初の信念を曲げなかった。死後衣類などもきちんと整理されてあって、その几帳面な性格の一端が窺われた。以前は老人に対して思いやりはなかったが、武藤家に仕えるようになってからは、中気で病床にあった70歳のおじに好物を携えて、見舞うようになった。このことは武藤山治の感化するところがいかに大きかったか、父親は感謝もし、また驚嘆していた。

兄 保氏は自分が兵役中に弟の茂が中学一年で学業を断念せざるをえなかったことは、すまなかった。勉強がよくできたので、長男の自分は村に埋もれても、弟を世に出してやりたかったと、その無念さを述べている。また心から尊敬していた武藤先生の膝下にあり、先生のために倒れたことを茂は満足に思っていることと信じるとも言っている。

もしこのような不運な事件に巻き添えにならなかったら、生来聡明な青年の未来はどんなものであったか予想し難いが、家族の期待に背かなかったであろう。事件のあった翌日の新聞には、武藤山治をかばわんとして怪漢に撃たれ、その場で昏倒したとの記述により、当時の新聞記事を読んで有縁無縁の人々から青木家に慰藉の手紙や言葉が多く寄せられた。

父親の太一は人前では一度も涙を見せたことはなかったが、ある時、「茂さんは身を以って武藤さんをかばったのは実に忠義な青年であった。」と言われた時は涙を禁じ得なかった。それは息子の行為をそれ程まで賞賛してくれた嬉し涙だと述べている。兄 保氏は「私は茂の傷が二つとも前から撃たれたものであることを知って安堵に似た気持ちになりました。もしもこれが後から撃たれものでしたら、例え傷が浅くとも私達は茂のために悲しんだことでしょう。」と言って自らを慰めている。

昭和9年は、函館の大火で数千人が死亡、室戸台風で5千人が亡くなっている。帝人事件の贈収賄事件の摘発があったのも、この年である。昭和7年には満州事変、昭和11年には2、2、6事件が勃発、日本が軍国主義に突進していく狭間の時期であった。「大学を出たけれど」の時代で庶民の生活は苦しい時代であった。

事件の現場に最も近い寺に円覚寺があるが、その中の黄梅院の奥まった所に武山堂と称する観音堂がある。この堂の中に奉られている観音菩薩像は武藤山治が生前自仏であったものを、武藤山治、青木 茂の菩提の追善を願って、遺族が寄進されたものであるという。

武藤家では青木 茂亡き後も何度も遺族がお悔やみに訪れ、茂両親は恐縮し、供養の一端として青年団や村当局に寄付できたのも、武藤家のお陰であると言っている。

武藤山治の墓は、生前縁の深い舞子浜にあるが、その墓域に青木茂の墓碑が建立されたことを、茂の父親の太一は「茂が家族の一員として取り扱って頂くわけであること考えますと実際このことを人様にお話する度に嬉し涙が溢れてまいります。」とその心境を語っている。

惨事の現場は円覚寺前を走っている通りに出る 間道で、周囲は麦畑の人気のないところであった。いまでは当時とは違ってはいるが、朝夕、女学生達の登校下校以外の時間帯を除いて閑静な地域であることには変わりない。そこが65年前に鮮血が飛び散ったなど道行く人は勿論のこと住民すら知る人もすくないであろう。北鎌倉から八幡神社に通じる方向の道は年中人の波が絶えない。その反対の大船に向かう道の裏側の路上なので、観光客も足が及ばない。知られざる痛ましい鎌倉の裏面史の一スポットと言えよう。