国木田独歩の「鎌倉妙本寺懐古」と「運命論者」

夕日いざよふ妙本寺 法威のあとを弔へば 芙蓉の花の影さびて 我世の末をなげくかな

法よ、おきてよ、人の子よ 時の力をいかにせん

永劫の神またたきて 金字玉殿いたずらに 懐古の客を誘ふかな

梢の鳩の歌ふらく ありし昔も今も尚ほ 夕日いざなふ妙本寺 芙蓉の花は美なるかな」

この詩は「要するに悉、逝けるなり」で始まる「秋の入り日」と共に独歩の晩年の絶唱との誉れの高いものである。

妙本寺は鎌倉の駅から徒歩10分程の所にある日蓮宗の寺,開基は比企大学三郎能本で1260年の創建である。祖師堂には、身延山、本門寺にあるに日蓮上人像と共に天下に三体の像がある。

この一帯は比企ガ谷と言ってかって比企能員一族が住んでいた。能員は頼朝の乳母比企禅尼の甥で嗣、頼朝の忠臣であり、娘の若狭局が源頼家の子一幡を生んだ。一時は外戚として北条氏を凌駕する程の勢いであった。比企能員は源頼家と組んで北条氏討伐を企てたが、北条政子の発覚するところとなった。時政は比企能員を暗殺、その時この辺一帯が火の海と化し比企一族が滅亡した。

従って妙本寺の山門をくぐって、右手境内の一隅に比企一族の墓や一幡の袖塚がある。この袖塚は幼児一幡が、焼死した折りに焼け残った衣装の袖を埋めて弔ったものである。また若狭局が亡くなった後、霊が蛇と化し執権北条政村の娘に取りつき、重病に陥ったのでその霊を慰めるために建立した蛇苦止堂がある。

祖師堂の左手には、鎌倉時代の万葉集の研究家であった仙覚の住居跡に「万葉集研究碑」がある。仙覚は当時無点歌であった部分に新点を加えて、万葉集研究を飛躍的に発展させた。東国の学問の水準を示すものであった。

墓域には宗教色の強い評論を書き、親友の高山樗牛と共に、浪漫的、神秘的傾向で明治の一時期読書界に大きな影響を与えた仏教学者の姉崎潮風の墓がある。

国木田独歩が鎌倉に逗留したのは、明治35年のことである。斎藤弔花とふらりと鎌倉にやって来て、貸し家を巡査にきいてその日に探したのが坂ノ下の権五郎神社の境内にあったこじんまりとした貸し別荘である。独歩の鎌倉日記は明治35年の2月8日から、2月21日で終わっているが、一旦帰京し再び鎌倉にきた。浜辺に押川春浪の住居があり、春浪の世話でその裏手の家に引越し、東京から妻子を呼び寄せている。

鎌倉在住中は文壇の人々との交流も多く、実りの多い時期と重なる。友人宛てに出している書簡は11月30日に田山花袋のが最後であるから、独歩が鎌倉逗留期間はほぼこの一年とみてよい。

当時の作家の生活は独歩に限らず、生活は不安定極まりなかった。売文生活の様子が日記からも書簡からも伺える。花袋への書簡の中で、「運命論者」が出版社の採用するところとならず、「大阪もペケに相成り候、焼き捨つるも惜しく持余し居候」と悲嘆の情を吐露している。窪田空穂によると、日本中の小説を載せる雑誌社を廻って大阪にまて行ったがどこでも断られたと言う。やっと「山比古」に掲載されたが、千葉亀雄が2、3行批評したにとどまった。この年すなわち明治35年の年末に空穂が10円届けたら、お陰でもちがつけたと喜んだ。

独歩は「余は反面の於いて運命論者なり、而して他の反面に於いて事実論者なり。吾人の日常遭遇する総ての出来事を以って、直ちに単純なる事実とのみ解釈すること能ず。事実以上、吾人の力を以って予測し難き運命の存することを認む。」と述べている。

独歩の代表作の一つである「運命論者」が執筆されたのが、片瀬と鎌倉の境にある竜口寺の一室である。この作品の舞台となった鎌倉海岸は、鎌倉在住で知り得た知識が下地になていることが窺える。竜口寺は日蓮上人法難の地である。絶唱と名作にゆかりがある事もこれまたなんらかの因縁がありそうである。