鎌倉を愛し清貧を貫いた郷土史家、木村彦三郎
鎌倉文士と言う言葉があるが、今では戦前から鎌倉に住んでいるいわゆる鎌倉文士は殆どいない。すべて鬼籍にはいられた。その鎌倉文士と称される人士で鎌倉生まれの人は皆無と言ってよい。勿論彼等の後半生が鎌倉と深い結びつきがあり、色々な面で鎌倉を喧伝した功績は大きいが、鎌倉文士の書くもの中に、子供の頃の思い出に鎌倉が登場することはこれまた極めてすくない。
今回紹介する木村彦三郎は明治39年鎌倉坂ノ下に生まれた。87年の殆どの生涯を鎌倉、藤沢、逗子で過ごしたので、鎌倉を中心とした明治から大正、昭和の街の変遷を見てきた言わば生き証人である。中世の鎌倉の歴史は研究されていて、いまさら補足することはないが、明治から昭和30年頃までの変貌を書き記しておかないと、永遠に分からなくなってしまう。そのようなことから、自分の見聞を基に、天保生まれの祖父や明治生まれの父母の話を克明に記して、昔日の鎌倉の様子、生活、習慣、風俗、交友関係を語って倦むことを知らなかった。それらを纏めたものが「鎌倉記憶帖」、「続鎌倉記憶帖」である。
生家が坂ノ下で回漕業を営んでいた関係で、鎌倉の漁師達がどのような生活をしていたか活写されている。鎌倉の海だけで働いているのではなく、鎌倉を起点として西の方は静岡、東は仙台あたりまで出かけていって、色々な物資を運んで来る。勝浦や鴨川あたりの人々が腰越あたり時期によっては働きに来る。腰越の漁師は冬には漁がなくなると、安房から上総あの辺に行って稼いでくる。また海と陸の関係では、よそから持ってきた品物を近郷近在の町や村に「担ぎぼて」で行商にいく。またこういう海陸の物資の売買によって情報も交換され、遠隔の地のニュ−スが自然に伝播される。陸路はせいぜい馬に積んで運搬するので、少量であるが船だとその何倍も輸送できる利点がある。
鎌倉は周囲が山に囲繞されていて、耕地面積、特に田圃がすくない。そこに住んでいる農民、漁民の暮らしは他の地方と交易をしていかなければ、成り立たない。決して生活は豊かでなかった。
木村彦三郎は、関東大震災以前のそうした生活を実際に見て知っている。現在の鎌倉では想像もつかないことであるが、こうした貧しい生活がおこなわれていたのは遠い昔のことではない。津村の農家の人間が腰越の町に野菜や花をリヤカ−に乗せて行商に行ったのは昭和40年頃まで続いた。
明治以前は長らく寒村であった鎌倉が、明治20年代から政治家、実業家等の別荘が由比ガ浜、材木座、長谷に作られるようになった。それは東京から比較的近距離にあって自然に恵まれていたことがあげらる。
木村彦三郎は大正2年に鎌倉小学校に入学した時、樹齢何百年という
老松が鎌倉にはいたるところに植わっていて、「松の都」だと教師に教わった。この言葉は中年の金子先生から教わったが彦三郎が80年後も忘れずに覚えているという。彦三郎が鎌倉を愛する原点である。
別荘地としての鎌倉のイメ−ジが定着したが、これも関東大震災によって本格的な別荘地帯は消滅した。震災以後は人口が増加し自然が少なくなり、住宅が建つようになり、地形が変わってきた。
木村彦三郎は、震災後長谷に住んでいた生田長江の家を知っていて、この頃、鎌倉は文士村と称して賑わった。久米正雄、田中 純、高浜虚子、佐々木茂索、房、里見 、岸田劉生、吉江孤雁、大仏次郎、森田草平、葛西善三、山川 均、小牧近江などがいた。
生田長江の家に出入りした佐藤春夫、生田春月ら無名の作家達のエピソ−ドが書かれているが、長江は作家には非常識なところがあっても、なにより才能、作品を第一と考えていたことを伝えていて興味深い。生田長江の墓は長谷寺の奥の墓地にあるが、ここは彦三郎の生家のあったところから、最も至近距離にある。長江に逸早く認められた佐藤春夫が墓碑銘を刻んでいる。
木村彦三郎は、鎌倉史研究家で鎌倉の研究誌「鎌倉」の発行者、亀田輝時(1893−1946)を紹介している。亀田輝時は、近代鎌倉の研究の先駆者である。輝時は生田長江の妻の兄にあたる。学生時代は故郷鳥取から上京し、長江の家から大学に通学したこともある。関東大震災後、輝時は二階堂に、長江は長谷に移住する。亀田は大学卒業後会社員になったが、辞めて「鎌倉の歴史を研究誌し、鎌倉を都人士に紹介するために、内容のある雑誌をだしたい。」と言って雑誌「鎌倉」を発行した。1926年4月号が創刊号である。資金は郷里の家産がつぎ込まれた。雑誌は断続しながら、1940年まで続いた。廃刊理由は紙の統制によるものである。1946年心臓麻痺で急死、53歳だった。
木村彦三郎の父親は「かじめ騒動で」失敗し、親戚や坂の下の村民からも村八分にされ、由比ガ浜に移る。このころに木村家の貸し家に、東京から療養のため鎌倉に来た後の11世団十郎が住み、仲良しになり彦三郎は歌舞伎の世界を初めて知る。
彦三郎は若い頃プロレタリヤ文化活動に従事、雑誌「前衛」の中心的存在であった林 房雄と親しかったことから、「前衛」の事務局員として働く。また左翼芸術運動の大合同の後出来た全日本無産者芸術連盟(ナップ)が成立し、事務局と雑誌「戦旗」出版の手伝いをする。
左翼運動のよる仲間の連絡うのため、居所を鎌倉、藤沢を転々とした。病弱故に十分の活動ができなく、同志からはあてにならないと言われ、親戚からは「親不孝」と蔑まれた。そうした中にも父親は「彦三郎のやっていることは、酒よ女や盗みや強盗で投獄されたのでなく、自分の信念に基ずいたことからであるから、家族の者まで冷たい目を向けたら、立つ瀬がないじゃないか」と言って庇ったと言う。
彦三郎は早くから文筆家になろうとの希望を持っていたので、どんな苦労も辞さない覚悟でいたが、健康に恵まれなかったことがネックになった。歌舞伎の脚本を書くことを願って、昭和9年に団十郎と一緒にいった東宝劇団が、昭和13年に解散するまで演劇部に籍を置いていた。
その後鎌倉に帰ってきて、藤沢の郷土史家、服部清道の口利きで大船の巌松堂の古典部〈幽学荘舎〉に就職する。服部清道は仏教考古学を、木村彦三郎は古典部の演劇関係を担当する。ここは神田の古書の老舗、巌松堂の別荘で出店してなかったが社員は10人位いたという。彦三郎は体が思わしくなく、ほどなくここを辞めた。
昭和15年に飯塚友一郎と諮って「鎌倉文化協会」を設立した。その目的は戦火が激しくなり、出来れば何か自分たちの生きた証を、残したいと言って芸術の各分野の人々に呼びかけて50名がその趣旨に賛同してくれた。
この発展的解消が戦後になって、光明寺を臨時の校舎として昭和21年に誕生したのが「鎌倉アカデミ−」である。このユニ−クな学校は正式に文部省から、認可を受けていなかった。行く行くは大学に発展させようとしたが、資金その他学校運営の面で、問題が生じ成功しなかった。
結局数年の短命に終わったとはいえ、立派な教授陣がいたためにその後各界で活躍している事から見てもユニ−クな学校であったことが証明された。 理事の職にあった木村彦三郎は、この鎌倉アカデミアの廃校後、健康を害し、腰越に移住する。神戸(ごうど川)の傍の通称「県庁長屋」に住む。腰越と津は地形が入り組んでいて判然としなく、ここを気に入っていた木村彦三郎は一頃津村 雄のペンネ−ムを使っていたのはこの事による。そして住居が互いに近いこともあって、詩人の北 鬼太郎や中国文学者の岡崎俊夫と交友関係が生まれる。
昭和35年頃、当時の山本市長が鎌倉に文化財保護委員会をつくらなければならなくなった。そこで鎌倉の文化を熟知してる木村彦三郎に再三要請があり、嘱託につくことになった。この期間にこれまでの体験や知識が折りあるごとに、地元の新聞の「鎌倉タイムズ」や「鎌倉朝日」、図書館ニュ−スに寄稿し、鎌倉に関する古いことなら、この人に聞けと言われるようになった。彦三郎の作家回顧録は文壇史より個人的であり、「鎌倉的」であるために下世話なところがあるかもしれない。でも鎌倉の地理に通じている者にはかえって、文壇史に書かれていないだけに、興味尽きない。素顔の鎌倉文士が、微細に語られている点ではユニ−クな文壇裏面史である。この嘱託がその後死去するまで続いた。
この間1966年に「近世郷土資料文書解読講習会」の第一回が開かれ、木村彦三郎は市民の受講者に近世古文書の手ほどきをする。その後これが「鎌倉近世文書同好会」に発展した。その幹事が村上敦子で、木村彦三郎の他界(1993年)後一年目に「続鎌倉記憶帖」を出版した。
従って正式の図書館の職員でないので、報酬は正職員と違って、多くはないが木村彦三郎のこれまでの体験、蓄積された知識、研究を纏めるには図書館ほど適所はなかった。「鎌倉の年寄りの話」、「道ばたの信仰−鎌倉庚神信仰」、「鎌倉のことば」「山の内村御用留」、「鎌倉の社寺門前」、「鎌倉の俳人江戸、明治」「柳屋と独歩、蘆花」、「鎌倉記憶帖」等はこの間に纏めたものである。
実際に足を使ってその土地の古老から昔話を聞き、書き留め各地に散在している庚申塚を確かめ、史跡、遺居を探訪し、鎌倉近世古文書を渉猟するといった地味な研究の成果である。
木村彦三郎の生家は、前述の「かじめ騒動」や関東大震災によって大きな打撃を受け、その後再興ならずに終わったが、彦三郎の精力的な執筆活動により、一時期の鎌倉の姿を永遠に伝える一環として紙上に名をとどめることになった。
木村彦三郎の未亡人、三保子さんは生前の結婚生活を顧みて、「よく町を一緒に散歩した時など、ここは某作家が住んでいたところだとか言って色々教えて呉れました。若い頃は久米正雄さんのところによくうかがっていました。好きな事を一生続けられたので本人も本望だったでしょう。」と語っている。その久米邸も今春に縁の福島県郡山に移築された。
鎌倉の文士に愛され、鎌倉文士を愛した清貧の郷土史家であった。