近衛文麿のプライベ−トの部屋を「襲った」男の話
近衛文麿、木戸幸一、原田熊雄この三人は学生時代から言わば朋友である。学窓を巣立って、政界で各々の仕事を通じても生涯それは変わらなかった。或時木戸は「近衛の相談として一番親しかったのは、まあ原田と僕だろうね。ウン。他にもうあんまり、、、、、、、それはいろんな機関やなんかを持っているしね、いろんなところに足をかけたり、いろいろしているけれどね、一番困ってくるとやっぱり僕のところへ来るね。それで女の問題だと原田のところへ行くんだ、ウフフ。」
近衛内閣の時の農林大臣をしていた有馬頼寧(有馬記念はこの人の名を冠したもの)は「花売爺」で次のように書いている。「或る日、何か緊急な用があって、原田君が近衛君の寝込みを襲ったことがある。近衛君も奥さんもまだ寝室にいた。遠慮のない原田君は、ずかずかその寝室に入るなり、「奥さん、起きてください。」と言って、奥さんを寝室から追い出してしまった。そして近衛君と何か用談を始めたのだが、近衛君は床の中で起きようともせず、原田君も寒くはあるし、馬鹿ばかしいと思ったか、奥さんの寝台の抜け殻に横になり、近衛君と話を続けた。原田と言う奴はそういう奴だと近衛君が話していた。」
ところが、近衛の秘書で側近の一人の牛場友彦によると、原田の遠慮のなさはそんなものではなかったという。「或時、近衛さんがお妾さんの山本ヌイと蚊帳の中で寝ていると、原田さんがいきなりやって来て蚊帳の中まで入り込んで「この女だけはよせ。」と言ったというんだ。山本は意地の悪い女だからとね。、、」ところが、近衛さんは周囲が反対すると意地になってますますそっちへ走って面白がっているところがあったんですよ。」
反対に原田に言わせると、「近衛と言う奴は他人の迷惑などちっとも考えない我がまま者だ。僕など一番の被害者だ。」と言う。
原田は、近衛が風呂に入っていようと平気だ。近衛は風呂で「スミレの花咲く頃、、、、、」という宝塚少女歌劇の歌なんかをよく歌っていた。すると、原田もどんどん風呂の中まで入って行って二人で合唱していた。その他「愛国行進曲」とか「波浮の港」とか「あなたと呼べば」なんかを歌っていた。二人が一緒にドライブすると、「箱根の山は天下のけん、、、、」を歌ったものだという。
近衛文麿は1945年に服毒自殺し、原田熊雄は翌年の1946年に死去している。原田熊雄は西園寺公望の秘書を15年間に亙って勤め、当時の重臣、高官との連絡、政界情報の収集にあたった。その間の詳細な口述記録が原田文書である。木戸日記と共に戦前の昭和期の政界の貴重な資料である。