郷土作家としての阿部
昭「司令の休暇」で軍人の父親の晩年を描いた阿部
昭が55歳の若さで忽然とこの世を去ったのは昭和64年(1989年)の初夏のことであった。最後の住居は辻堂東海岸である。阿部 昭は昭和9年(1934年)に広島で生まれたが、生後一年足らずで父親の海軍省への転出で鵠沼字下鰯(現鵠沼海岸3丁目)に転居。生涯に鵠沼で一、二個所移転したが、鵠沼海岸、辻堂東海岸で終始した。昭和14年(1939年)乃木女学校(現南白百合学園)付属幼稚園に入学。小田急線で鵠沼海岸から、幼稚園のある片瀬江ノ島まで2年間通う。昭和16年(1941年)藤沢市第一国民学校(現藤沢小学校)に入学、幼稚園のミッションの雰囲気に親しんでいたので、国民学校にしばらく馴染めなかった。電車通学であった。この間土地の生徒にもまれて、虚弱体質を脱却する。後年の性格もこの時期に養われた。
昭和17年(1942年)父親が駆潜隊司令としてフィリピン攻略作戦に参加、掃海隊司令として内地に転出。昭和19年(1944年)に大佐に昇進。以後終戦を迎えた。
終戦と同時に軍人一家の阿部家は一変し、家庭の悲劇が展開する。海兵42期生のエリ−トが、逆に国賊扱いにされる運命に翻弄されて、生活の術を失って失業者に転落、少年
阿部 昭に写った栄光の父親像を今や虚像にしか過ぎなくなった。その落ちた偶像を25年後に書いたのが「司令の休暇」である。「未成年」、「おおいなる日々」、「明治42年の夏」の四部作は父親に捧げる鎮魂歌である。司令は父親の生前の輝ける栄光を、休暇は失意の父親の気持ちをやさしく包んだ象徴として相応しい題名である。本来なら父阿部信夫は将官を約束されていたが、酒の上の失敗で司令止まりに終わったが、息子の書いた作品によって、かっての将軍より読者の心に残るであろう。父親の関係で阿部
昭は戦時中は、海軍にあこがれており、科学少年でもあった。しかし終戦と同時に海兵で江田島から帰って来た次兄に、家にあった英語のリ−ダ−で英語を学ぶ。後年フランス文学を専攻する阿部 昭がいち早く海外に目を向けるのが早かったのも、海軍一家によるところが大きいと言わねばならない。また父親に勧められて「坊ちゃん」を読んだ。父親は軍人である一方文人気質のところがあった。若い頃は毎月の本代で母親を悩ましていたという。こうして見ると阿部 昭は父親譲りのところを受けついているようである。小学校卒業時にコンサイスの英和辞典を記念にもらい、藤沢市立第一中学校はモデルスク−ルとして英語教育に力を入れていたと言う。野球部に所属していたがその空気に馴染めず、演劇部に移り演劇の魅力をしり、中学生活は最も楽しい3年間であったと回想している。これに触発され、大学でも演劇部にはいり、就職もラジオ東京に入社し、演劇関係にタッチしたかったが、職場では希望する部署に配属されず、むしろ転々と配置転換の憂き目にあう。その期間の一連の体験を書いたものが「冬物語」、「東京の春」「日々の友」である。
昭和25年に湘南高校に入学し、国語
英語以外に興味を無くし、文学に目覚め芥川の文庫本を自分で初めて買う。自分でも書いているようにおくてを自認している。それまでは活発な、内にこもっているタイプでない少年であったので、鵠沼界隈の土地に自然に熟知する。この事が12年余勤めた後、筆一本の生活に入って書かれた「千年」「十年」「一日の労苦」に鵠沼が舞台として登場する際に生かされる。「子供の墓」は阿部
昭の父母、長兄が眠っている自宅近くの尼寺である。時たま僕(阿部)は子供を自転車に乗せて出向く。あえて香煙を手向ける訳ではないが、その寺域の幼い子供らの墓を見て、その子らがいま生存していたら、自分の年齢位になっているであろうといった感慨をいだく。鵠沼海岸、引地川、橋、土手
畑、松林 別荘地、空き地、学校、商店等 鵠沼の風物が阿部 昭の作品には必ず登場する。この50年間の変遷が織り込まれていてなにげないものにも親しみを覚える。「鵠沼西海岸」の中で阿部 昭は次のように述べている。「30何年、この波の音を聞きながら、夜は眠りにつき、朝は目を覚ました。ここはやっぱり僕のふるさとだ。この土地を、僕はどんなにか愛し、にくむ。」この作品は身体障害者の長兄が、ある日失踪し、自ら命を絶つ経緯を書いたものである。夜遅く母親と二人で松林など懐中電灯をたよりに探索する。松林一つとっても鵠沼の松林には阿部
昭の胸に深い傷が刻み込まれた。この長兄も幼い頃ちょっとしたことで身障者になり、不幸な短い生涯を終えた。阿部 昭が第15回文学界新人賞を獲得した「子供部屋」はこの長兄をモデルにしたもので、子供の時分から家庭の恥部として、隠したかった肉親であった。そうした不幸な息子の首のできものを見ては「このコブがなかったらね」と、いとしがる母親。阿部
昭にはこのデビュ−作以前に「花火」と言う習作がある。広大な別荘地に東京からやってきた少女との初恋物語である。この少女は一つ年下ではあるが、中学生の僕(阿部昭)よりませていて、ウブな僕を翻弄する。恋心を抱いている僕は長兄の存在に悩む。淡い恋心のまま少女は東京に去って行く。数年後僕は大学生になって手紙を出すが、その時少女は大人になっていて、一度は儀礼的な手紙がくるが二度とは来なかった。荒れ果てた鵠沼の別荘に住む少女と若き日の阿部
昭の交流は最初に手がけた小説であるが、なかなか完成にこぎつけるのは困難であったようだ。阿部 昭は執拗にと言ってもよいくらい「子供もの」に執着したが、子供の時の体験が成人した後も大きく影響して大人はその延長線上にあると言う確固たる信念を終生持ち続けた。鵠沼は古く
明治以降文人 墨客に書かれてきて、一般にも馴染みがあるが、それは一時的た逗留者としての目で見た感じであって、阿部 昭のように早くから人生に強い影響を与えた訳ではない。従って阿部昭にとっては他の作家たちが描いている鵠沼とは違った意味を持つ。阿部
昭は12年余の勤めを辞め、鵠沼と地続きの辻堂東海岸にト居してからは少年の頃の記憶に残る場所をときあるごとに訪ねて、その変化に戸惑いをみせる。かってあれほど好きだった海も、晩年は家と目と鼻先にあるのにほとんど散歩に行くことも無かった。海浜の商店街も別にこれと言って何の個性があるものでない。特に鵠沼に愛着があるある住民も少なくなって来たことも争えない。阿部昭
を郷土作家と言うと奇異に聞こえるかも知れないが、これだけ湘南の地に執着し、土地の景物を書き残し阿部 昭個人の人格形成に大きな影響を及ぼしたことから郷土作家と言っていいように思われる。