ABU総会

 11月6日、ABU総会が東京で開かれた。ABUとはアジア太平洋放送連合会である。

 アジア太平洋地域の放送機関から400社が参加した。もともと提唱者がNHKの前田義徳会長であった。発足したのは1964年(昭和39年)東京でスタ−トしたのだった。

 NHKは勿論、提唱者であるから本部のあるマレ−シヤと共に永久常任理事をつとめている。会場は各国巡り持ちだが、日本は、提唱者だから、ホストをつとめた総会の数が多い。

 私もNHK会長になった昭和55年のクアラルンプ−ル(マレ−シア)総会から毎年必ず参加した。会議の公共語は英語のみだから日本語派の私は副会長の席に坐るのがせいぜいであった。

 ことしの総会の場所は東京だった。11月6日に渋谷の東急系のセルリアンタワ−ホテル、新築間もない高層ビルだった。

 ちょっと早く会場につくと、早速各国のメンバ−達につかまった。「ハロ−、ハウアユ−」「アイムベリ−グッド、ツ−シ−ユ−」などはまだいい。6年も副会長として参加していながら、この英語の力ではこれはもう恥さらしだ。

 何度も会ったメンバ−にはつい心がはずむ。「ハウア−ユ−」「フアインサンキュ−」「アイムグラッド」なんてひとかどの英語使いの顔をしてみる。だがすぐつまってしまうとNHK国際部の通訳がパッと飛んでくる。

 大方のメンバ−の記憶に残ったのは1993年(平成6年)の京都総会だったらしい。

 あの時は妻が手術後だったので、「休め」といったのだが「皆遠くからやって来るんでしょう。私も行く!」という。「ああこれが妻の最後のABUになるなア」そう予感しながら、私もやはり「行った方がいい」と思った。

 妻はホステスとして見事に勤め上げた。

 皆にニコニコ愛嬌をふりまいていた。でもさすがに一日終ると、ガックリとなって、這うようにしてベッドにころがりこんだ。

 その妻の発案で、開会式のセレモニ−には文楽の吉田蓑助さんの人形づかいで、各国代表の席へおもむいて板倉通訳の名通訳でたっぷりお愛嬌をふりまいてもらった。

 私も開会式では、板倉君の読んだ挨拶文を3日がかりで暗記していかにも国際通らしいホストを演じて見せた。ABU会長のカミンさん(マレ−シア放送協会長)が私の歓迎挨拶が終るとニコニコして「ナイススピ−チ!」と手を叩いてくれた。

 秋の京都はすばらしかった。メンバ−のすべてが満足してくれた。

 総会が終って東京へ帰る新幹線の中では、もう妻は殆ど口をきかなかった。東京駅に会長車がきていた。妻は「一寸道草していい?」ときく。「どこ?」「神宮外苑に寄って!」という。私はすぐ了解した。国道246号線から外苑に入ってゆくあたりは「いちょう」の落葉で散り敷かれていた。妻は毎年冬に入ると「この時期の地上の黄色と大空の青さが一番いいのよ」といっていた。その言葉を思い起こしながら車をゆっくり走ってもらった。

 妻は始終無言だった。じっと車窓から東京の晩秋を見つめていた。

 帰宅して間もなく容態は悪化した。血尿が出た。医者に連絡してホスピスの役目をする病院をさがした。聖路加病院の一室が空いていた。11月13日、入院した。

 そして12月23日、早朝、妻は亡くなった。享年65歳であった。

 妻小夜子は極めて健康だった。昭和26年に結婚して平成6年に亡くなるまで病院の門をくぐったことは一度もなかった。

 重いカメラと付属品をもって日本中をかけ回った。「オイ、そろそろ海外へ行こうよ」「イヤ、日本の方にまだまだ見たいところが一杯ある。外国はもっとアトからでいい」そういっていたが、私はひそかに「この頑固者!」と思っていた。

 彼女は自分のことばで話したかったのだ。戦争中の女学生だから全くといっていい程語学はダメだった。平成3年は私が会長になった年である。その年、9月中国の江沢民さんから招待がきた。国交回復20年記念で招待してくれる、という。

「オイ、中国へ行こうよ!」

 ノ−、というかと思ったら、「うん行こう」という。「?」といぶかる私に妻は「英語しゃべらなくともいいんでしょう」「そう中国語だけでいい」「じゃ行く」これで彼女の外国嫌いが単に「英語べタだから」ということが分かった。

 事実、北京では彼女は生き生きとしていた。長城にも登った。頤和園(イワエン)にも行った。夜の京劇見物にも行った。そして私が中国の人たちを招いてのお別れ宴では自ら「私も挨拶したい」という。

 そして日本語で漢詩の「子夜呉歌」の一節をそらんでみせ、柳じよを称えた。

 中国の人々からさえ最大限の拍手を浴びた。「いつの間に準備したのか」私もびっくりした。

 翌年のABU総会はクアラルンプ−ルだった。「行こうよ」「イヤ」といわれると思った。だが妻の返事は「うん、行こう」だった。

 中国で向うの人の拍手を浴びたことに、大いに気をよくしたのであろう。何かコンプレックスがなくなったようだった。

 それからのABU総会には全部出席した。

「インドネシア、バリ島」「ニュ−ジランドのオ−クランド」そして京都、ここで妻は二度と起てなくなったのだ。

 私は私で、「司会できるような英語の力は、勿論ないからせめて何かでその分を補おう」と覚悟をきめていたから、副会長としては専ら補助的役割をつとめた。だからすべてが終ってのフアイナルパ−テイでは大抵「おハラ節」を踊った。今度も5年振りで参加すると、皆が「元気か?おどってるか?」と聞いてきた。こんな雰囲気を作ることも副会長の仕事だ!私は割切っていた。

 ABUの有力メンバ−の一人にドイツチェ、ベレのクナ−ベさんがいる。ドイツ人だが、まことに陽気な人だ。

「ミスタ−川口がいないから私がその分をやってるよ」と笑いながらABU芸術部長をつとめている。

 東京大会の最終日は11月7日だった。NHKの101スタという大スタジオにあり合わせのセットを組んでなかなか粋だった。ラストに高円寺の阿波おどりの連が登場した。私も連に入りたかったが、如何せん、今回は右脚骨折のあとで動きは思うに任せない。ソワソワしていると飛び出してきて阿波おどりを始めた人がいる。

「クナ−ベさんだ!」

 彼は連の中に入って颯爽と踊っているではないか!足の悪い私も手だけ動かして参加していた。

 大きな輪が出来た。いい風景だった。

 そのすてきな風景を見ながら「ああ、いいなア!」と思った。

ABUよ、いつまでも仲良く、ユニ−クなれ!そう祈っていた。