さくらの便りと友の死と

 2003年も早くも3月が去ろうとしている。ことしの冬は湘南にいても寒さを感ずる冬だった。何しろ鵠沼でも朝の気温、3度−4度なんて日が数回あったのだ。温かいから湘南に越した−と思っていた私などには、ちとうらめしい冬だった。

 3月も終りに近づいてぐっと暖かくなった。この分では鎌倉山の桜も早い時期に咲くのだろうか。去年は余りに早い桜前線の訪ずれに鎌倉山のサクラを見逃してしまった。ことしは全神経をとぎすまして、あのサクラのトンネルをくぐって、たっぷり桜の盛りを満喫しょう。

 ことしは、いよいよ9月に満77歳になる。喜寿や米寿の祝いは昔風に数え年でやるものだそうだが、やはり今時の考え方でいうと、満77歳の日をもって「喜寿」としたい。何人かの人たちが、「喜寿の祝」をやりましょうよ!」といってくれているので誕生日の9月25日にささやかな集りを持つことにした。それまでは何とか元気でいたい。それにはやはり東奔西走をくりかえして頼まれごとは一切ことわらないで精一杯やろう。

 妹たちのいうことを聞いて、プ−ルの中を歩き廻ろう。

 などと思っているところへ天本英世の死去の知らせがきた。

 昭和19年4月、旧制第7高等学校入学以来のつき合いだった。

 東大法科を中退して演劇学院に入り、木下恵介に見出されてあの「二十四の瞳」に出た。役は主人公「高峰秀子」の結婚相手だった。みるからに初々しい青年として登場したが、二枚目的な役はそれが終り。

 あとはどなたもご存知の通り妖怪博士などのグロテスクな役で売った。

 私の経験では、お芝居の役柄で一番むつかしくてやり甲斐のないのが二枚目。やって面白いのは敵役だ。天本はグロテスクな役で大いに売った。更に面白かったのは天本が一番売れたのはフジテレビのクイズ番組でだった。

 ここでは「旧制高校出身」の物識りぶりを十二分に発揮した。

 天本と私は若いうちはさっぱり会わなかったが、50過ぎてからは相当頻繁に会った。

 都内の料亭で同学年会(寮歌の題をとって北辰会といった)を開いた時、天本と私が話していると、そこの仲居さんが「あらこちら先生ですか?」といった。

 余りのことに二人顔を見合わせてプツとふいたら仲居さんも「あら、失礼しました!」といってあわてて飛んで行った。天本も川口もまだまだそんなに有名ではなかったのである。私が会長になり、彼が枯れた役柄やクイズのゲストをつとめる頃は、もう見間違える人は少なくなっていた。

 その頃、彼と会うと、よくスペインの話になった。

「なア、川口、オレ、日本と日本人がきらいになったよ」

「いいところいっぱいあるぜ」

「いや、オレは今の日本のバブルに浮かれた姿がいやなんだ!」

 そういった。それからしばらくして会った時は「やっぱりオレ、日本では死にたくない。今はバブル崩壊後の右往左往する人間ばかりだ!」

「じゃスペインに旅してこいよ」

「NHKのBSの旅行番組から口がかかった。彼はひそかにスペインへ向った。

 何ヶ月かたった。

 番組を放送で見ながら、つくづく思った。そのかみの七高時代の若者がスペインの山野を歩いている。小さな通りの小さな店で買物をしている。「ここが俺の生きるところだ!」とつぶやいているようだった。

 そして彼はついに、日本を好きになれず日本人に背を向けたままだった。

 3月23日、突然しらせが来た。

「天本さんがなくなりました!」

「生涯放浪人だった彼に妻も子も家もなかった。お姉さんが喪主になって彼の故郷、九州若松で葬儀は行なわれた。

 私はその時間に鹿児島にいた。

折柄、イラク戦争の経過がテレビをにぎわしていた。

 彼はきっとこういっているだろう。

「なア、川口、なんで世界中がこんなに憎み合って殺しあうんだろうな。オレの住むところはやはりスペインの山奥しかないよ!」