ア−トの森のこと(1)

 鹿児島に行ってきた。

 ここは勿論、私の故郷。幼少年時代に約20年近く住んだ。いつ行っても山河が私をあたたく迎えてくれる。行く度にホッとする。  もっとも、私もNHK現役時代はそう頻繁に行ける筈はない。「ふるさとは遠きにありて思うもの」(室生犀星)だった。といっても、犀星にとっての「遠きにありて思うもの」は故郷に対するうらみつらみからのものだが、私の故郷鹿児島に対する思いは遠くにあっても常にあたたかさの溢れるものだった。

 NHKをやめてしばらくたった頃、鹿児島県の東京事務所長が訪ねてきた。

「県から川口さんへお願いがあって参りました」という。「何でしょう?」というと

「こんど霧島の山麓に、県の野外美術館を作ることになった。館長の仕事をうけてくれないか」というご依頼だった。

 びっくりした。

「何で私に?」と思った。

 だからそれから何日かたって別な用があって鹿児島へ行った時、与次郎浜(ヨジロウハマ)へ移った鹿児島県庁に須賀知事を訪れた。

 桜島の見える知事室で、須賀さんはニコニコしながら、

「川口さん。私はあなたが、美術の専門家とは全く思っておりません。美術館運営にキャリアがおありとも思っていません。

 でも、NHKという広い階層の国民を相手に国民のためになる放送をやってこられたことは十分知ってます。そのご経験を生かして県では初めての野外美術館の館長になっていただきたいのです」

 「分かりました!」という他はない。

 その場で、私は就任をきめてしまった。

 はじめて「ア−トの森」を訪れた時、あたりの自然の豊かさにびっくりした。

 霧島山脈の最東端は高千穂の峯である。ここは天孫降臨の神話と伝説で満ち満ちている。古事記によると高天原からこの日本を統治すべく、天照大神の命をうけてその孫のニニギノミコトが天界から降ってこられた。その降臨の場所がこの高千穂の峯であった。

 霧島山脈の東端にそそり立つ高千穂はいかにも神話にふさわしい凛とした、しかし何となくあたたかい風情を見せる。

その高千穂から西へいくつかの山が続くがその西端が「栗野岳」である。

 この栗野岳の中腹をきりひらいて野外美術館を作ったのは鹿児島県である。

 勿論広大な土地は地元、栗野町の寄付であったし、地元と文化的施設を大自然の中に建てようという県との思惑は一致して3年前、全国でも珍しい「ア−トの森」という公立の野外美術館が出現した。

 さて、開館前に、ここを訪れた私が何よりも感動したのは、その大自然の風景であった。

 霧島の連峰の美しさ。南に目を向けると悠々と聳える桜島。錦江湾の海はあくまで青く、すぐ近くには近年発掘され多くの人たちが訪れはじめた上野原の古墳群。

 そして私が館長をつとめる「ア−トの森」は16ヘクタ−ルの森に囲まれたなだらかな丘陵に明るい室内展示室がある。森と芝生には周囲と調和するように、点々と彫刻が置かれている。それは世界の彫刻家が公募に応じて自ら下見に来て作り建ててくれた作品群である。

 それはアイデイアに満ちた造型であった。広い敷地の中に植物たちと調和しながら、人々の目を楽しませる。

 私は一廻りして、ここがいっぺんに気に入った。すばらしい景観の中に、すてきな彫刻が点在する。これは夢に見たような理想的な美術館ではないか。

 館長の私の第一の仕事は、パンフレットにのせる「ことば」だった。

「霧島ア−トの森、ここにはすばらしい自然があります。その自然の中に点々とすてきな彫刻が皆さんをまってます」

 私はそう書き出して皆さんへの招待文をしたためた。

 以来2年半、たくさんの人々が来て下さった。入園料は300円である。でもどんどんリピ−タ−がふえている。

 客を呼びこむために私は一寸した工夫をした。一つは地元「南日本新聞」の積極的支援を得たこと、特に特別展の時など、新聞の一面の真中に写真入りで紹介してくれた。

 遠い中央紙より近くの地方紙!

特別展も去年は二つやった。「岡本太郎展」と「草間弥生展」である。前者が昨2002年7月10日から8月21日まで37日間、後者は同じく2002年9月7日から10月27日までの44日間だった。

 この二つの特別展はよく人が入った。

 岡本太郎展が26、164人

 草間弥生展が24、920人

 合せて、51、000人というたくさんの人々が県内から、九州各地から遠くは大阪京都からおいで下さったのだ。

 びっくりした。

 そしてこの50、000人を越える人たちが二人の芸術家の作品に感動して下さったし、展示をごらんになったあと、園内を散歩されたり、霧島連山を眺めたり、芝生に寝ころがったりして楽しんで下さった。

 かくして新米美術館の3年間は大成功のうちに終った。霧島の天地に感謝したい。小鳥たちや鹿たちに礼をいいたい。それにも増してせっせと働いてくれた副館長以下の職員たち、学芸員から園丁や作業員の皆さんに「ありがとう ありがとう」と礼をいって廻りたい。すてきな2002年だった。