芸能人列伝(2)

私の50年人名簿から

淡谷のり子

NHK名誉顧問 前会長 川口幹夫

 昭和28年2月1日、NHKテレビが開局した。民放のテレビ局が8月には開局する。何が何でも、それより早くスタ−トさせよ!古垣会長の命で急遽テレビの要員が集められた。勿論テレビ研究班として何年も前からテレビの仕事に準備を続けたスタッフはいた。

 しかしそれは少数で、大半はラジオから、地方局からそして映画会社からかき集められた。従ってその専門能力には疑問符のつく人が多かった。

 福岡放送局でラジオの担当をやっていた私など最も専門能力に欠けた一人である。

 4月東京に転勤して、いきなりテレビスタジオにほうり込まれて、私は呆然とした。午前中に来日アメリカ人講師の座学を聞いて、昼からはもうスタジオに入って実践である。二台しかないカメラがコ−ドのからみ合いで動けなくなったり、出演者の準備が間に合わなくてパタ−ンで「しばらくお待ち下さい」を長々と出したり、今なら処分を受けるところだ。幸いに当時のテレビは東京、大阪合わせても3000台ちょっと。従ってどこからも苦情など来なかった。

 私は自分の希望(ドラマ、歌舞伎中継など)は一顧もされず音楽班にまわされた。ここの担当はクラッシック、軽音楽、歌謡曲、民謡、オペラ、ミュジカルの類である。

 大物はなかなかテレビに出てもらえない時代だったが、私はこれらの番組のすべてにタッチしたおかげで何人かのスタ−に出会った。勿論フロアデレクタ−だからお話は出来ない。デレクタ−の指示を出演者に伝え、出演者の要望をデレクタ−に伝えるのみである。でもレシ−バ−をかぶっている余徳で図々しく何人かのスタ−には馴れ馴れしく話が出来た。

 その中の一人が淡谷のり子さんである。淡谷さんは歌謡曲の世界では「雨のブル−ス」「別れのブル−ス」などで既にトップ歌手であり、シャンソンでは「人の気も知らないで」「枯葉」そして「暗い日曜日」など日本の第一人者であった。当時40歳そこそこの淡谷さんはあの豊かな胸で堂々と歌い上げられた。

 27歳の青年には少々眩しい風景だった。淡谷さんはレシ−バ−のデレクタ−の指示をうけて「ああしてほしい」「こうして下さい」などと生意気な注文をつける若僧を「ハイ、こうですね」とうけて下さった。

 後年 淡谷さんは率直な発言をよくなさった。「今の歌い手はあれは歌手ではありません。歌屋です!」という発言など世の注目を浴びた。

 淡谷さんは常々堂々と歌われた。お話しになることばには、おくにの青森の方言のナマリが交ったがそれが又魅力にもなっていた。

 いたずら好きの私は歌謡番組の中で同じ青森、弘前ご出身の奈良光枝さんと二人だけで徹底的に青森ことばで話してもらった。会話は約3分ひとことも私には分らなかった。細身の奈良さんと少々豊か過ぎる淡谷さんのコントラストの面白さ、矢のように口をついて出る、ちっとも分らないお二人の青森弁。それは極めて微笑ましい時間であった。

 何年かたった。平成九年七月、私はとんだことから島会長辞任のあとをうけてNHKの会長になった。

 就任から10日目、夏の特集番組の収録がNHKホ−ルであった。

「会長、ごあいさつに行きませんか」という歌田秘書のすすめで、NHKホ−ルの楽屋へ行った。淡谷さんの個室に入った。

「川口です。又帰って来ました。どうぞよろしく」あいさつする私に淡谷さんは

「あら 坊やずいぶん大きくなりましたね!」

「坊や、とはひどいですよ」と口とがらせる私に淡谷さんは

「ワタシ、あなたの若い頃知ってるのヨ。あんたかわいい坊やだったヨ」

 ホ−ルを出ると秘書がいった。

「会長、会長も淡谷さんの前では坊やよばわりなんですネ。いや−感心しました」