番外 紅白歌合戦の思い出(1)
この連載を執筆している時、第51回紅白歌合戦のメンバ−が発表になった。(2000年11月)
紅白28組ずつ合計56組み。司会は紅組、久保純子、白組、和泉元弥である。出場メンバ−にはアルフアベットやカタカナの名前が圧倒的に多い。時代を反映しているといはいえ私などには、どれが誰やら、名前と顔は合わないしグル−プ名に至っては全く見当もつかなくなった。
50年たったのだなアと慨嘆するのみである。紅白歌合戦の第一回放送は昭和26年(1950)1月3日だった。私のNHK入局はその前年の昭和25年だったから、勤務先の福岡にいた。その第一回放送は勿論ラジオのみだった。昭和26年1月3日の夜のんびりと、独身寮で聞いた覚えがある。時刻は午後8時から9時までの一時間。「へえ−なかなか面白いぞ」というのが私の実感だった。後年、自分が12回も担当するなどとは全く予想もしなかった。
その第一回のメンバ−を見てみると、紅組、司会加藤道子(東京放送劇団)
白組 藤倉修一アナウンサ−
選手は(紅) 菅原都々子、暁テル子、菊池章子、赤坂小梅、松島詩子、二葉あき子、渡辺はま子
(白)鶴田六郎、林 伊佐緒、近江俊郎、鈴木正夫、東海林太郎、楠木敏夫、藤山一郎
紅白七人ずつ計十四名、場所は内幸町にあった第一スタジオである。
後年、私が福岡局の勤務を終えて東京テレビジョン局に転勤になったのは昭和28年である。
司会者を含めた十六人。私はこの人たちを全部知っている。その口調、その歌い方、その歌う時のスタイル一寸した癖まで全部覚えている。テレビが始って、ラジオ、テレビの同時ナマ放送となったのが、昭和28年12月31日の第四回からである。26年が第一回で、28年が第四回というのはおかしいとおっしゃる方がいる。その通りである。昭和28年は1月3日と12月31日と2回も紅白歌合戦をやっているのである。そのラジオ、テレビの同時の放送から私はタッチしたのだ。勿論田舎から出てきて5ヶ月目の新米アシスタント、デレクタ−だったのだから、日本劇場(その昔、有楽町にあった円錐型の建物)の冷房のない一階の隅っこにレシ−バ−をかけたまま、ガタガタ震えていた。
しかし時がたつにつれて震えはピタリととまった。華やかな舞台には次々と14人の歌手が登場する。客席が興奮にゆれる。喚声そして拍手。
未だかってこんなスリリングな番組があっただろうか。私も興奮していた。そしてそれから12回、私は紅白の担当になった。初めはアシスタント、3回目からはPD、そして最後の十回、十一回目はCPとしてである。
回を重ねるにつれて、紅白はどんどん大きくなって行った。いつの間にかそれは私たちの手に余るぐらいの巨大番組になった。
新聞は書きたてる。選考方法がいい加減だ、と文句が来る。文句いわれても当然だ。出場者の選考は当初全体の指揮をとった近藤 積さんであり、近藤さんの大CPとしてのご意見は唯一絶対のものだったのだ。つまり今は世間様まで大騒ぎする紅白も当初は一般の歌謡番組にちょっと毛の生えた程度の特集番組に過ぎなかったのだ。
新聞が大々的に書きたて、紅白に選ばれる事は歌手にとって最高のステ−タスとなった。もはや単なるNHKの一番組ではなくなったのだ。私がCPになった頃はもはや「普通の番組」とはいえなくなった。それは作り手の裁量をはるかに越えた巨大番組と化していた。
私がCPになった頃から、出場歌手選考委員会なるものが作られ、その委員会に選考の参考になるデ−タ−(レコ−ド売り上げ、人気度調査など)が提出されて外部の委員も交えての大がかりなことになってしまった。いやはや、紅白は10年にして生みの親の近藤さんも、育ての親の私も勝手には出来ない大番組となってしまったのである。