映画「麦秋」の北鎌倉プラットフォ−ム

小津安二郎監督の「麦秋」が制作されたのは1951年で、その年のキネマ旬報ベストテン第一位に選ばれた。「晩春」(1949年)でもベストテン第一位であり、小津安二郎の脂の載りきった時期の作品と言えよう。

この作品は由比ガ浜の海岸で、犬が渚で戯れている春の朝のシ−ンから始まる。映画の筋書きは、植物学者(菅井一郎)を父親に持ち、丸の内の商社役員(佐野周二)の秘書紀子(原 節子)が周囲から持ち込まれる縁談をよそに、近所に住む豊かではないが、誠実な医師謙吉(二本柳 寛)の後妻に嫁ぐ話である。

周囲の人々は、紀子がどんなに理想的な相手のところに行くか期待しているのであるが、母親と暮らす中年の寡は常識的に結婚相手の対象にならなかった。紀子の兄(笠 智衆)の勤めている病院の同僚でもあるこの医師との結婚話は、兄すら賛成しかねた。相手は子持ちの中年男性であるので、初婚の妹を嫁がせるのが何か不憫であったのである。

北鎌倉から、東京に通勤する時、時折り医師と紀子がいっしょになることがある。新緑に囲まれた山の光景の中に二人が、この北鎌倉のプラットフォ−ムで東京行きの電車を待っている間、会話をしているシ−ンが写しだされるのが、すがすがしく印象的である。鎌倉や北鎌倉では、毎日通勤しているといつも同じ時間帯に顔を合わせる人が出来、特に知人でなくとも軽く会釈をするといったのどかな時期があった。このシ−ンはそうしたよき時代の鎌倉在住の通勤者を偲ばせるに十分である。

こうして顔を合わせているうちに自然に相手の人柄がわかり、ただ写真で見せられるだけで、良く分からない相手より自分で納得できる人間に親近感が生まれる。

医師の母親たみ(杉村春子)はかねがね自分の息子(謙吉)にもし気立てのやさしい紀子が来てくれたらと一縷の望みを抱く。そんな矢先に息子謙吉の地方転勤がきまる。謙吉の出立の晩、紀子が家にきた時たみは思い切って、紀子に話してみる。

たみは「実はね。、、、、、紀子さんおこらないでね、謙吉にも内緒にしといてよ」紀子[なアに?] たみ「いいえね。へへへ、虫のいいお話なんだけど、あんたのような方に、謙吉の御嫁さんになっていただけたら、どんなにいいだろうなんて、そんなことをかんがえたりしてね。」紀子「そう」たみ「ごめんなさい。こりやあたしがおなかん中だけで考えてた夢みたいな話、、、。おこっちゃだめよ」紀子「ほんと?おばさん、、、、」たみ「何が?」紀子「ほんとにそう思ってらした?あたしのこと」たみ「ごめんなさい。だから怒らないでっていったのよ」紀子「ねえおばさん、あたしみたいな売れ残りでいい?」たみ「え?(と耳を疑うように見る。)」紀子「あたしでよかったら、、、」たみ「(思わず)ほんと?(と声が大きくなる。)」紀子「ええ」たみ「ほんとよ!ほんとにするわよ!(思わず紀子の膝をつかむ)」紀子「ええ」たみ「ああ嬉しい!ほんとね?(と涙ぐんで)ああ、よかったよかった!、、ありがとう、、ありがとう、、」紀子「、、、」たみ「ものは言ってみるものねえ。もし言わなかったら、このまんまだったかも知れなかった、、、。やっぱりよかったよ、あたしおしゃべりで、、、、、。よかったよかった。あたしもうすっかり安心しちゃった。、、、、紀子さん、パン食べない?アンパン」紀子「いいえ、、、、、あたしもうおいとまするわ」たみ「どうして?もう少し待ってよ。もう帰ってくるわよ謙吉、、、」紀子「でも、、あたし帰らないと、、」と立ちかかる。たみも立つ。たみ「ほんとね。今の話、、、、」紀子「ええ」と玄関へ出て行く。たみ「ほんとなのね?いいのね?」紀子「ええ」

小津安二郎は出演者に演技にいちいち細かい注文をつけたことで知られるが、杉村春子に関してはほとんどそれをしなっかたと伝えられる。したがってのびのびした演技となり、原 節子が演じる紀子役の静の演技との対照がくっきりと描出されていて忘れ難いシ−ンとなっているのである。

小津監督は新劇の役者を映画に起用することに最初は消極的であった。だが脚本家の野田高悟が杉村春子を「晩春」に起用することを薦めて以来、すっかり杉村春子の演技が気に入り、以後小津映画になくてはならない名バイプレ−ヤ−として登場する。その後の「東京物語」でも名演技で観客を楽しませてくれた。もし杉村春子が出演していなかったら、この名作もいささか違っていたものになっていたであろう。

「麦秋」が制作されて半世紀、今でも北鎌倉のプラットフォ−ムに立って、周囲を見渡すと往時とそれほど変っていない。というのは円覚寺、東慶寺など周囲の寺に囲まれていることが、その理由であろう。