番外編   ふるさとの山、ふるさとの人

私の50年にわたる芸能人との交流の中から、印象に残る人々をご紹介しているが、さすが50年ともなると、登場させる方々は断然故人が多い。無理もない。筆者本人が七十の半ばなのだから、、、。

 そこで筆者健在の証拠として、時には現代のことを書いて置きたい。いわゆる「閑話休題」というヤツである。

 10月12日「鹿児島の霧島ア−トの森」が開館した。私はその館長である。

 そもそもは私がN響理事長の時に、当時の鹿児島県知事、土屋佳照さんのご依頼をうけて、霧島に文化の森を作りたい、というプロジェクトの委員になったことから始まった。

 当時の私は理事長として、N響にいたから、当然のことながら、音楽ホ−ルの建設の方に力を入れていた。ところが、その最中に私はNHKの会長になってしまった。さあ、霧島どころでなはない。仕方がない、土屋さんにお願いして委員をやめさせてもらった。

 この委員会はその後、東大の木村尚三郎氏を長としていち早く「みやまコンセ−ル」という音楽ホ−ルを作り上げてさっさとスタ−トした。その後、任期途中で土屋さんが脳出血で倒れ須賀龍郎さんが知事になった。

 その須賀さんから、ある日電話があった。私はNHKをやめて顧問だった。

「その後、美術の方も着々と進行して2000年の10月にはオ−プン出来る。ついてはあなたに館長になってもらいたい」というのである。

 さあ、困った。私はもともとドラマ人間、故あって音楽方面の仕事を長年やってきたので、少々自信もある。だがこと美術に関して甚だ心細い。特に彫刻については知らぬことばかりだ。でも「頼まれれば、越後からでも餅つきに来る」というではないか。まして頼んできた人は、故郷鹿児島の知事である。「おうけしましょう!」と私はいった。

 でも県立の仕事として私は既に大分の平松知事のご依頼をうけて「大分総合文化センタ−」の名誉館長をひきうけている。「平松さん、故郷から頼まれて断れません。二つともひきうけることにしたい。ご理解下さい」「どうぞどうぞ、いいですよ」平松さんはこころよくうけて下さった。

 さて「ア−トの森」のことである。霧島連山の西部に栗野岳がある。その栗野岳への中程700メ−トルの高原を栗野町が無料で貸してくれた。13ヘクタ−ルというから広大な土地である。

 この土地をきりひらいて広大な芝生の原っぱを作る。一部森を残して、その森の中に点々と野外にふさわしい彫刻を配する。時には自然の中にすっかり融合している彫刻もある。

 展示館には現代ア−トのごく一部だけど秀作を陳列し、のちのちはここは「ア−トの森」の特別展として活用する。大体そんな意図ではじめたのだ。

 鹿児島の新聞社から電話があった。「川口さん、キリシマのア−トの森の館長ひきうけたんですって!もう六年も前にスタ−トしているのに、それじゃ、テイのいいシャッポになるだけじゃありませんか!!」

 美術館というのは一つの個性で貫かれねばダメです。開館前に館長になって何が出来る!?というのが、彼の主張だった。

 私はこたえた。「そう、私は県にとって都合のいいシャッポかも知れません。でもいいじゃありません。すてきなシャッポなら、、、、。館長の役目の第一はこの館の魅力をたっぷり知らせて人を集めること、第二は少数ながらいい職員を集めて精一杯仕事をしてもらうこと。第三は将来に向って計画性をもっていい施策を進めること、第四、危機管理をはじめ顧客第一主義の運営をすること。

 こんなところじゃありませんか。それならシャッポとしても十分やり甲斐があります」

 かくして晴天の下2000年、10月12日「ア−トの森」は開館した。1、2日目は招待客だったから、大体500人が集ったが、3、4日目は有料入場者のみで合わせて3000人がおいでになった。

 開館日の私のあいさつ。「今から、36年前1964年の10月10日は東京オリンピックの開会式でした。前日までの雨つづきで皆暗い気持でした。当日は抜けるような晴天!放送開始の時、担当の鈴木文弥アナウンサ−はこういいました。

「今日の主役は太陽です」

 それから36年、今日、10月12日の主役も太陽です。更に太陽と並んで主役を助けるものが二つあります。一つは霧島の緑、そしてもう一つその緑の中に美術品の数々があります。太陽と緑と彫刻と全部をお楽しみください!」