番外  紅白歌合戦の思い出(2)

 紅白第一回の出演者について列伝的に私の思い出を書いてみたい。

 まず、司会の加藤道子さん、当時は東京放送劇団の大ベテランであった。以来50年たって加藤さんは未だに放送の現役である。森繁久弥さんと共演の日曜名作座では女性の声すべてを引き受けて、見事な演技力をふるっておられる。放送作家、西沢 実さんや田井洋子さん、それに我々NHKの職員が集って作っている俳川会(ハイセンカイと読む。俳句と川柳と両方をつくる珍しい同人の会である。敗戦後、すぐ結成されたので「敗戦」に因んで俳川と名づけられた)の重要なメンバ−で頑張っておられる。加藤さんの俳号は「於道(おみち)」軽妙にしかも含蓄に富んだ句を作られる。

 菅原都々子さんは若手だった。「月がとっても青いから」のような一寸変った発声でユニ−クな歌い手だった。

 暁 テル子さん、大ヒットは「ミネソタの卵売り」ケツケツケツコ−ケ、ケ、コ−という鶏の鳴き声入りで踊り廻った。

 菊池章子さん、「星の流れに」で大スタ−となり一世を風靡した。のちに「岸壁の母」でも大ヒットとなったのだが残念なことにそのすぐあとに別の会社から出された「岸壁の母」が本職の浪曲入りということもあって、追い越されてしまった。平成12現在もまだ御元気である。

 赤坂小梅さん。市丸、勝太郎と並んで、いわゆる芸者歌手の一人だが、恰幅もよく、朗々とお歌いになった。力強い声での「黒田節」が耳に残っている。

 松島詩子さん、大ヒットしたのは「喫茶店の片隅で」、タンゴ全盛時代のハシリとなった曲である。また「マロニエの木陰」もすばらしい歌唱だった。

 二葉あき子さん、未だにお元気で、年に2、3回のリサイタルをお持ちである。

 「水色のワルツ」「プラットホ−ムの夜は更けて」など高いきれいな声が耳にのこる。

 渡辺はま子さん、何といっても「支那の夜」が一番有名になったが、のちにはフイリッピンのBC級戦犯を見舞われて「モンテンルパの夜は更けて」を歌われた。また「サンフランシスコのチャイナタウン」は極めて軽快なメロデ−で世を湧かした。

 さて、男性の方は司会は藤倉修一アナウンサ−。戦後「二十の扉」で有名だが今も御元気な86歳である。来年は数え年で88歳。米寿をお迎えになる。私の丁度一回り上の寅歳だ。

 鶴田六郎さん、目のクルクルした元気なロクさんであった。林伊佐緒さん、ご自分で作曲された「出征兵士を送る歌」「ダンスパ−テ−の夜」など戦前戦後を通して第一線におられた。お人柄がとても良くて歌手協会の会長もつとめられた。

 近江俊郎さん、「山小舎の灯」が戦後の日本に響き渡って喝采を博したが、一番近江さんを有名にしたのは、古賀政男作曲の「湯の町エレジ−」だろう。

 鈴木正夫さんは元々が民謡歌手だが、そのすぐれたノドを思う存分使った「大漁唄い込み」など絶唱であった。

 東海林太郎さん、マッスグに直立不動で、歌われるので有名だが、「野崎小唄」のようなイキな歌でもその姿勢は変らなかった。満鉄のサラリ−マンから歌手になられただけあって、私如き若僧に向っても常にご丁寧であった。

 楠木繁夫さん、何といっても「緑の地平線」が有名である。この方のご夫人も三門順子といって、いわゆる「おしどり歌手」のはしりである。

 ラストの藤山一郎さんについてはこの列伝のトップでお伝えしたが、とにかく戦前、戦後を通じての大歌手であった。もっとも常に白組の大トリをつとめられたため第3回では熱戦の余りどんどん時間がたってしまって、やむを得ず、ラストの歌い手藤山一郎さんがワンコ−ラスで終ったという悲劇もあった。この時でも藤山さんいささかも騒がず「いいでしょう。私の歌で調節して下さい」といわれた由。こうして書いていると50年前なのに相当にはっきり覚えているのは、私が若かったせいもあるが、やはり一人々々が個性に富んでいたからであろう。