50年、私の人物列伝

              川口幹夫

(番外編)

 私の人物列伝には芸能人、芸術家、作家、音楽家、放送人のたぐいは登場するが、政治家、経済家、法律家、事業家等々は全く登場しない筈であった。

 そうきめて書き始めたわけではないが、思い出をたぐって書いてみると、やはりそのようになった、、、、、と思っていた。

 だがどうもこの人だけは極めて強い印象で、私の脳裡に残っているからどうしても外すわけにはまいらない。

 その人の名は現内閣総理大臣 小泉純一郎氏である。そこで番外編の一つとして小泉さんのことを書いてみたい。

 平成4年2月3日、朝日新聞が一面トップで報じた「ムスタンのヤラセ事件」はNHKを猛烈な力で直撃した。

 その前年の9月に放送したNHK特集「秘境ムスタンをゆく」はいわゆるヤラセによる演出だらけで事実を大きく誤っている、担当者の視聴率をあげようという作為に満ちた、過剰演出である!NHKよお前もか!」という調子である。

 飛び上がって驚いた。「報道及びドキュメンタリ−には作為を許すな。淡々と事実を伝えよ」というのがNHKの不文律(民放もそうでなければならぬ、と思うが)であったから、NHKドキュメンタリ−特に好評を得ているNHK特集でそんなことが?とはじめは信じられなかった。

 しかし調べてみると、相当部分に誇大な演出やいわゆるヤラセがあったことが判明したのである。

 会長である私は直ちに調査委員会を作って調査した。そしてその中のいくつかのシ−ンはやはりドキュメンタリ−としては許されぬヤラセがあったことが分かった。

 二週間後、私は自らテレビに出てその結果を報告するとともに担当者は出勤停止、私は6ヶ月給料20分の1削減−という処分をした。

 この事件が起きた時の郵政大臣が小泉純一郎さんであった。一件の処置が終ったところに郵政省の課長が電話してきた。「大臣に報告しろ、あやまってほしい」というのである。

 私は「既にテレビを通じて視聴者に報告し謝罪したのだからその必要はない!」と答えた。

 しかし郵政省はウンといわない。「何とか大臣にあやまってほしい」「分かった、あやまるのは国民にあやまったのだからその必要はない。大臣へは報告だけする」ということで院内の大臣室へ伺った。

 課長が私を案内して「NHK会長がまいりました」といった。

 小泉大臣は「あ、そう、ま、坐って下さい」という。

 坐った私にいった小泉さんの第一声、私はこれを忘れない。

「あ、川口さん、NHKはイタリヤオペラを随分、熱心に呼んでくれましたね」

「は?」

「私はオペラ大好きなんですよ。NHKがいいオペラ呼んでくれるんでほんとにうれしいんだ!」

「へ? 大臣は何がお好きですか?」

「私、これまでのイタリヤオペラで一番、いいと思ったのはアドリア−ナ、ルクルブ−ル!」

 何と小泉さんは私の最も成功したオペラが一番よかったとおっしゃるのだ。チレア作曲のアドリア−ナ、ルクルブ−ルはすばらしい歌手が揃わないとめったに上演されない。この時は、あのオペラ史上に燦として輝く名歌姫モンセラット、カバリエだったのだ。

 モンセラット、カバリエ、その美声は前から轟いていたけれども、そのカバリエであの名曲「アドリア−ナ、ルクルブ−ル」がきける!私は興奮して自分のフトコロから金を出して二階正面(といっても大分上段だったが、、、、、)できいた。

 カバリエの歌はピアニッシモ(最弱音)になっても、NHKホ−ルの隅々まで透った。すばらしい声だった。胸がふるえた。

「会長もカバリエきいたの!あれ良かったね。又ききたい」

 二人のイタリヤオペラ談義は30分たっても尽きなかった。ヤキモキした課長が

「大臣、会長に、、、、、」といった。

この時の小泉大臣のことば

「あツ、そうだったね。川口会長、いいですね、よろしく」

幾百言で叱責されるより、この一言がこたえた。

以来、私は小泉さんのひそかなフアンになった。そして8年がたった。小泉さんは、多くの人々の期待を背負って総理大臣になった。

 この総理の任期の長いことを私は祈る。日本の政治を変えるために!