お上のお弁当を食べた話

昭和9年から昭和天皇に侍して半世紀、退官直後に急死した入江相政は、生前に繁忙な公務の間を縫って、随筆を新聞や雑誌に書いて天皇や皇室の内部の知られざる断面を伝えた。人評して「昭和の清少納言」と言うほどの名声を得ていた。時代も違うが、一面では清少納言より、詳細にユ−モラスに活写した随筆は、置かれた地位と古典の学識に、生来の気取らない性格によってはじめてなるものである。親子二代に亙って天皇の侍従長として皇室に仕えた入江相政は、文字通り最後の公卿と言ってよい。死後、半世紀の及ぶ膨大な日記が、公刊され、昭和史の国家の重大局面を補完する裏面史の役割を果たすことは必定である。次の話は昭和32年「侍従とパイプ」に載っているものである。

昭和22年の天皇が関西地方を巡行中のことである。お供の者達に一尺四方位の春慶塗の弁当というより蓋付きの膳のようなものに、酒の肴のような前菜ふうのものに、実にきれいにご馳走がつまっていた。当時は食料難で食うや食わずでいた頃なので、じっとしていられなかったと言う。

当時、天皇は大膳製のものしか召し上がらない慣習であった。だがあまりの珍羞なので、大金侍従長が「これをお上に上げよう」との一言で、天皇に持参した。天皇はまさに箸をつけようとされる寸前であった。

「そこへ私が春慶塗の大きな箱を持ちこんだものだから、何事が起こったかというような顔をしていらっしゃた。"府のほうでわれわれのために用意してくれた弁当がたいへんきれいで、おいしそうでございますから、さしあげたらどうだろう、ということになりました。”といって蓋をとってご覧にいれたら、陛下も地元のものを召し上がるのは、はじめてのことでもあるし、急に食欲をおもよおしになったと見えて、”しかしこれをわたしが食べると、だれか足りなくなりやしないか?”とおっしゃり終わったころにはお箸のさきがもう鮨にとどいていた。

私は”いいえ、あちらにはまだたくさんございましたから、大丈夫でございます。”とおひきうけした。今考えて見ればこれはきわめていい加減な話で、その部屋の人数と弁当の数とをつき合わせて見たわけでもないし、また大阪府庁が不必要にたくさん弁当を準備するはずもないのである。これは春慶塗の弁当箱が高く積み上げてあった印象のすばらしさから、こう申し上げてしまったのに過ぎない。これくらい気合をかけなければ、陛下はご遠慮になって召し上がらなくなってしまうかもしれないし、さらにそれと矛盾するようであるが、お箸はすでに鮨に届いていたようではあったし。

喜んで召し上がりはじめたのを見届けて、元の部屋にもどって見ると、もうみんなその弁当を喜んで食べ始めている。私がさっきちょっと座っていた所には大阪の知らない人が座って盛んに食べている。どこかに弁当だけ置いてあって人のいない所はないかと思って方々さがしたが、そういうところはない。府庁はやはりそこで食べる人の数をよく調べて、それに合わせて注文したのであった。これは当然のことで、何の不思議もない事だが、その時の私にとってこれほどさびしく悲しいことはなかった。

侍従長はじめ同僚はこの経緯をよく知っているから、さすがに同情してくれて、こうなっては仕方がないから、例のお弁当を頂いてしまえ、そうでもしないと、食いはぐれてしまうからと、陛下のいらっしゃる部屋の裏から忍び込んだ。塗り物のお弁当箱をそのまま頂戴するわけにはいかないので、紙の上に向けて、お弁当箱を逆さにふったら、海苔巻きやらおかずやらが大混乱のまま重なり合って一時に落下した。

その日はスケジュ−ルが狂ってあれやこれやで、出発までに10分位しか時間の余裕がない。そのうえトイレにもいかなくてはならない。あせった私は、ごちゃごちゃになっている陛下のお弁当のなれの果てにいどみかかった。どうもさっき見た大阪の弁当のほうがずっとうまそうだったと思いながら、ただただ猛烈な勢いでグイグイと詰め込んだ。その真っ最中に、なんとこまったことに、陛下がその部屋に入っていらっしゃったのである。これはまた考えて見れば当たり前のことで、そこは陛下がお手洗いにいらっしゃる通路のようなところだったのだから。

非常に不思議そうなお顔だったように記憶する。”わたしがこれを食べたために、だれかがなくなりはしないか”とのおたずねに対して、たったいま、山ほどある、とお引き受けしたばかりの男が、どさくさまぎれに本来の陛下のお弁当にむしゃぶりついているのだから。しかし別に何ともおっしゃらなかったし、私もその時もそのあとでも、弁解がましいことは申し上げなかった。

それからちょうど9年たってから、ある晩、お話し相手をしながら食事をいただいている時に、だれかがこの大阪の話を思い出して言い出した。それで私はここに書いたようなことを詳しく申しあげて、あれ以来ずっと2人前やったらしいとお思いになっているかもしれませんが、私としてはまことにわりの悪いつまらい役割でございましたと申し上げましたら、ただ大いにお笑いになっただけで、別にそれ以上なんともおっしゃらなかった。

だからほんとうにあの時どうお思いになったか、またその後どうお思いになっているかは、全くわからない。これ以上さらにうかがってみても、またお笑いになればそれまでのものである。

紙の上に海苔巻きやら、おかずやらが混乱して落下したのと、私の食べることのできなかった春慶塗と、執念深いようだが、私は今でもこの二つを目の前にいきいきと描き出すことができるのである。」

入江相政の随筆の中には食べものに関するものが多く、またその何気ない食べ物に対して彼一流の一家言がある。この種の随筆は、時代、立場、状況に加えて、作者の観察眼によって、時間を掛けて始めて生まれるものであって、入江相政しか書けない。正に抱腹絶倒であり、入江相政の随筆の中には、自分と意気投合する人物に遭遇すると、よく相抱擁したくなると言った言葉が出てくるが、この一文を読んで、ありし日のあの端正は顔を思い出すことしきりである。