誰が本当の最後の文士?

 昭和38年の桜の花見ごろ、江藤 淳は今年もまた花を待たずに死んで行った人々があることを思い出した。そう思いながら尾崎一雄が亡くなったとき(昭和38年3月31日)、新聞はほとんど例外なく、尾崎一雄に「最後の文士」という謚(おくりな)を呈したが、あれはどういう意味だったのだろう、ということを考えた。

「最後の文士」という呼び名を最初に聞いたのは、高見 順が亡くなった昭和40年の夏の時が最初だったという。「最後の文士」のあとに、また「最後の文士」が出現するとは、どういうことなのだろうと疑問を投げかけていた。

 里見とんが逝去した時(昭和58年1月21日)も「最後の文士」と書いた新聞があった。だとすると、里見とんは最後の「最後の文士」で尾崎一雄は最後の最後の「最後の文士」ということになるのだろうか?

 いや、それだけではない。これからもまだ何人も「最後の文士」が輩出するのだとすると、一体誰で「最後の文士」は打ち止めになるのだろう。これは案外文学史的にいうと、重要な問題かも知れない。

 小林秀雄が亡くなった時、「最初の批評家」だったから、さすがに最後の文士とは新聞も書かなかった。では「最後の批評家」になるのはいったい誰なのだろう。

 この「最初の批評家」という言葉はあまり聞き慣れないが、その後今日までこの謚を冠せられた批評家はいるのであろうか。