青梅、奥多摩、盲目のピアニスト梯剛之そして吉川英治
私が会長をやっているNPOの「青少年の心を育てる会」からのご依頼で、青梅に行ってきた。青梅というと何となく東京の奥、人里はなれた村落をイメ−ジしてしまう
決してそんなことはない。東京駅から快速で一時間、今は堂々たる近代建築の町である。だが緑は多く水は清らかである。
その青梅の教育委員会のお招きで、青梅の校長さん方と話してもらいたい、というのである。(偶々
NPOの理事の佐藤さんが、教育委員長であった)題を「イスカのハシ」とした。それで気がついたのだが、このコトバ自体が今や全くの死後になっている。演題をきめる時「イスカのハシ」といったら、まず
NPOの常務が「何ですか?」という。「知らないの?忠臣蔵の六段目、勘平腹切りの場にも出てくるじゃないか?!」「へえ、そんなコトバ初めてです」から始まって青梅の方たちも全員(?)である。藤沢でいつもおつき合いしている地域新聞の編集局長にきいてみた。勿論六十代後半である。「はア、イカスのハシ、ですか。何でしょう」ここではとうとうイスカがイカスになってしまった!当日、校長会の受講者にきいてみる。
「イスカのハシ」知っている人?皆ポカン。やっと一人の手が上がった。「イスカは鳥の名、ハシは口ばしです」ヤレヤレ。一人いた。
忠臣蔵六段目、有名な勘平の腹切りの場でこのセリフが出てくる。
勘平は山崎街道の夜道でイノシシと会い、鉄砲でイノシシを討つ。ドウと倒れたイノシシをまさぐっていると老人の死体に会う。彼は「イノシシとまちがえて人を討った」と誤解する。闇の中、死人の懐中に手を入れて五十両入りの縞の財布にさわった。
さては人を撃ったか!動転した勘平はあわてて財布のヒモを切って闇の中を逃れる。
実はこの五十両、老人が自分の娘を遊郭へ売った金だった。娘は勘平のいいなずけ「お軽」。
勘平はこのことを知らず、手に入った五十両をみやげに、赤穂浪士の仲間に入れてもらおうとする。
勘平の家では、お軽が京へ売られていこうとしている。そこへ戸板にのせられた父親の死体、一瞬勘平は自分が義父を射殺したと誤解する。勘平は訪ねてきた二人の侍の前でいきなり切腹する。
「いかなればこそ勘平は、三左衛門が嫡子と生まれ、片時、武勇を忘れぬ身が、、、色に耽ったばっかりに、大事の場にもあり合わさず、、、、いいわけなさん勘平が切腹なすをご両所方お下にござってご覧じ候へ」そういって腹を切ってしまう。
二人侍が死体を検分して、これは鉄砲傷でなく刀傷だ!」という。勘平は苦しい息の下で、私の一生はある所で狂ってしまってあとはイスカのハシとくい違ってしまった。主君への申し分けも立たない、と嘆く。
思えばバカな話である。一寸した深慮があれば勘平も腹切る必要はなかったのである。
だかそういう理屈を通り越して二重三重に組んだ悲劇は大団円へと突入していく。
昔の芝居作者が得意としたところであり、ここでも観客の万涙を絞ったのである。
その悲劇の中で勘平がいう「イスカのハシと食い違い、いいわけなさに勘平が切腹なすを、、、、、」ということばが観客の胸をうつ。
「かわいそうに、、、、」「死ぬことはなかったのに、、、、」と客は涙する。
イスカは辞典では「鳥+易の会意文字」となっている。イスカはくちばしがくいちがっているため、物事がくいちがって思うようにならないこと、をいう。となっている。
ハシは嘴(クチバシ)である。
勘平のセリフ
「金は女房を売った金、討ちとめたるは舅(シウト)殿」
勘平のトチリはただのトチリではない。そのトチリの行く先に勘平の死があったのである。「イスカのハシ」のくいちがいの最たるものといってよかろう。
この人生「イスカのハシのくいちがい」ばかりです。でも死んだらおしまい!
忠臣蔵の六段目は早トチリの勘平さんに同情しつつもそういっているようだ。
さて講演の次の日は奥多摩へ向った。昔は小河内ダムといった。ことしは満々と水をたたえていた。
どうやら水の心配はなさそうだ。
山を降って夜七時から、青梅市市民ホ−ルで、梯剛之(カケハシタケシ君のピアノソロがあるという。
N響時代にヴイオラの梯孝則さんに頼まれて、盲目の息子さん剛之君のウイ−ン留学のささやかお手助けをした人だ。
剛之君はそのため、がんばって遂に平成十年に「ロンテイボ−コンク−ル」の二位になった。
そのあと何回か彼の演奏は聞いたが今回は久し振りだった。
曲目はすべてベ−ト−ヴエン
すてきな演奏会だった。中でもラストの「熱情」がよかった。満員の拍手の中で剛之君は何度も何度もアンコ−ルに出て三曲もひいた。
きけば、この町には、剛之君の母「祐子さん」の友人がたくさんいらっしゃって、毎年剛之君を呼んで演奏会をしているとか。
いい夜だった。
翌日、玉堂美術館(河合玉堂さんのすばらしい作品がいつぱいある)や市民美術館に行ってそれから吉川英治記念館に行った。
青梅は吉川英治氏のお気に入りの町、氏はここで晩年の作品を書かれ、ここで亡くなられた。
執筆された部屋や、庭がそのまま残っている。このお庭を見て歩いている時吉川英治さんのご子息「英明」さんに会った。
軽井沢に常住していられるのが、たまたまここに出てきたという。奇遇だった。英明さんは私のNHK時代の報道の記者をやっていた。早目にやめられてお父さんの作品をのこす大事業をやっておられる。
「私ももう六十こしました!」という。若い日の吉川放送記者の面影がチラと見えた。
「なつかしいね」「来年は、又よろしく」
そうだ。来年は久し振り吉川英治作「宮本武蔵」が大河ドラマになる。