團伊玖磨

 團さんがなくなった。しかも中国の蘇州であった。日中文交(日中文化交流協会)の会長として北京を訪問され、脚を伸ばして蘇州に赴かれた深夜のことだったらしい。

 團さんは団と書かれるのを大変いやがって「僕は團です!」、と正字を書くことを要求された。

 團伊能、團琢磨という名門の血のしからしむるところだったのだろう。

 その團さんと初めてお会いしたのは、私がテレビ音楽班に所属して、クラシックでもジャズでもシャンソンでも、歌謡曲でも担当していた頃である。

 その頃、團さんは黛 敏郎、芥川也寸志さんと「三人の会」を作られ、日本の音楽界に新しい風を興そうとしておられた。新しい交響曲、新しい室内楽、童謡、そしてオペラ、三人の音楽界に及ぼした影響は極めて大きかった。

 團さんはその中でも最年長としてリ−ダ−役をおつとめになっていた。といっても声高に叫んで陣頭に立つ、というようなものではなく、その実際に作られる作品を大きな道具にして、行く先々で新鮮な魅力を発揮された。

 木下順二さんの「夕鶴」は、はじめ「ぶどうの会」で公演された。山本安英さんというまことに人間ばなれのした女優さんに合せて書かれたというが、貧乏な男のために自分の羽を抜いて反物を作る、という民話「鶴の恩返し」を舞台劇にしたもの。

 鶴の化身に見える山本安英さんの演技(というよりは存在)に震えるような感動を覚えた。

「夕鶴」は早速オペラ化された。木下さんは「一切のセリフをそのまま音楽にすること」という条件をつけられたが、團さんの曲は木下さんのセリフや「夕鶴」全体の雰囲気を見事に生かしきって、現代創作オペラの代表作となった。ごく最近、新国立劇場の大ホ−ルで鮫島有美子の主演で久し振りの再演があったが、やはりすばらしいものだった。

 團さんは新国立のコケラオトシにも「建(たける)」というオペラを書かれた。日本武尊の物語だが、これはそれほどの成功を収めなかった。日本古代の世界を余りにも研究しつくしたせいではないか、と私などはいぶかったぐらいだ。

 でも團さんは七十七歳にしてなお意気軒昂だった。「まだ、やりたいものが二つあるんだ」といっておられた。もうその新作を見ることは出来ない。一足お先になくなられた奥さま和子さんのところへ行っておられるのだろうか。

 團さんは横須賀市秋谷に住んでおられた。葉山御用邸からさして遠くないところだ。この秋谷にはかって沢村貞子さんがマンションをお買いになって住んでおられた。

 私にとっては忘れられぬ二人の人の死を悼んで近い中、秋谷海岸に行ってみようと思う。