岸田国士の「暖流」に登場する鎌倉山

岸田国士が朝日新聞の連載小説に「暖流」を書いたのは昭和14年(1939)であった。昭和12年の日中戦争以降、反フアシズム運動や自由主義に対して弾圧が強まって行った時期であり、戦争文学一色の直前の作品である。岸田国士は1923年フランスから、帰国後の翌年「チロルの秋」、「古い玩具」を発表し、戯曲家としてデビュ−した。昭和4年に朝日新聞に連載した「由利旗江」で小説の分野も手がける。「暖流」は構成の面からも円熟した筆致で描かれた岸田国士の代表的小説である。

岸田国士は自作について次のように述べている。「この物語の主題は言うまでもなく、現実と理想との相克から生まれる人生の美醜両面を描くにあるのだが、必ずしも私はここで「新しい倫理」を説こうとしたのではない。むしろ我々の伝統的感情が、現代の混乱を極めた世相の中で、如何にその生来の面目を発揮するかという問題に答えようとしたのである。」

「暖流」は一代で築いた志摩病院の院長、志摩泰英が、余命幾ばくもなくなった時に、かって学費を出して大学を出して、台湾の会社の就職を世話をした日疋祐三に、財政的危機に陥っている志摩病院の建て直しを依頼する。志摩病院の再建に乗り込んできた日疋祐三をめぐって、病院の令嬢の啓子と看護婦で啓子と女学校の同級生の石渡ぎんの恋の葛藤を描いた恋愛小説である。病院の医師で、偽善者の笹島医師は、志摩病院の令嬢の啓子と結婚しようと策略を巡らし、結婚寸前までいくが、不身持ちの実体が露見して破談になる。啓子は日疋祐三信を頼出来る人物として知った時には、日疋は蔭で協力している石渡ぎんとすでに婚約していた。

舞台は鎌倉山の別荘、小石川の病院、本郷千駄木の本宅、三保の松原である。東京小石川の病院を離れて、ガンのために静養している鎌倉山の別荘は、松林を切り開いた眺望のよい丘の上に建っていて、遠くには江ノ島の灯かりが見える。純日本風の母屋と離れの洋館とが渡り廊下でつながっている。啓子は週末には電車で東京から父母のいる鎌倉山の別荘にやってくる。

この鎌倉山からは大島、富士山、伊豆半島、箱根連山が遠望できる。そして、夜ともなると、「我ひとり鎌倉山を越えゆけば星月夜こそうれしかりけり」と「永久百首」に詠われたように、星が一段と美しい。もっともこの歌が読まれた頃の鎌倉山は、北鎌倉から扇ガ谷あたりのことであるが、昭和になって鎌倉山というのは笛田を中心として、一区画500坪単位で分譲された地域である。

志摩泰英が死去してからは、志摩病院の再建計画が発表されると、異母兄妹の医師志摩泰彦は緊縮案に反対、病院内の医師達もこぞって協力しない。そうした状況の中で、石渡ぎんだけが、病院内の動きの内偵として日疋に協力する。

結局、志摩家は鎌倉山の別荘だけを残して、本宅、別荘すべての土地を処分して、別の会社組織として志摩家の手から離れる。啓子は母親と鎌倉山に常住し、啓子はそこから東京の学校に通うことになる。

医師笹島との婚約を解消した啓子は、日疋のプロポ−ズに素直に応じられない。と言うのは父親泰英の臨終から、葬儀そのご頻繁に志摩家に頻繁に足を運んでくる勢力的実業家肌の日疋に、「異性」としての興味ではっきり心に写してみたことはなかった。その一つは日疋と石渡ぎんの関係を知っていたからである。

「あなた石渡ぎんさんをどうなさるおつもり、、、、、、石渡ぎんさん、、、、、」「えツ!」「、、、、、石渡君をほんとうはどう思ってるかと言うんでしたね。ほんとうは嫌いじゃありません。どうかしたら好きになっていたかも知れません。ただその程度の興味でいちいち恋愛をしていたら、恋人はいくたりあっても足りないことになりますからね。僕は今なら、はっきり言ってもいいと思うんですが、あなたの存在が僕の心を捕えている以上、石渡くんだろうがなんだろうが、物の数じゃありません。僕は、ですから今度、先生に会って、本当のことを言ってやるつもりです。」だが啓子は日疋の希望を断る。

日疋は石渡ぎんに次のように言う「、、、、、君さえ同意してくれれば、僕は近い将来、君と結婚したいと思うんだ。なるほど、僕は一度、ある女を愛しかけたことはある。その女が誰だと言うことは君にはまだ言わなかったね、、、、、、」「知っていますわ。啓子さんでしょう」と、この時、彼女はやっと口を開いた。「そうか。知っていたのか、じゃ、もう、その先は、、、、、」「おっしゃらなくっていいわ。でも、ほんとに、あの方のこと思いきっておしまいになれるかしら、、、」「ああ、できるとも、そんなことはもう忘れちまったくらいだ」

この小説の最後のところで、啓子は「、、、、、じゃ、はっきり言うわ。よくって?あたくしね。比較しちゃわるいけれど、あの笹島なんて言う人より、あなたの方が、よっぽど好きだわ。自分の生涯を捧げてちっとも惜しくない方だと思うのよ。それや、石渡さんのこともあるけれど、そんなことなんでもないわ。あたくし、そういう点では、エゴイストよ。エゴイストで、ちっとも構わないと思うの。ただ、あなたのああいうお話を伺ったとき、どういうわけだか、胸へぴんと来ないところがあったの。考えれば考えるほど、そんな筈ないと思うんだけれど、つまり、どうしても酔えないんだわ、、、、酔うなんて変な言葉よ。むろん、、、、、」「笹島君の場合は、それが、、、、、」「いいえ、ただ、そんな錯覚みたいなものがあっただけなの、、、、あとから思うと、、、、」、、、、、、、、、「、、、、、、僕はね、啓子さん、実はつい二三日前、石渡君と結婚の約束をしましたよ。僕はこの女を妻にすることが、少なくとも正しい道だと思いました。こういうと、僕のとった態度は、なにか宗教的な信念にでも基ずいているようですが、決してそうではありません。要するに平凡な男の平凡な幸福が満たされるというだけです。この女になら、なにかしてやれるという自信がもてたこと、僕には、そんな悦びが必要だったのです」それまで啓子は両手を後へついて、顔をがくりと仰向けに倒し、心持ち釣り上がった目尻のえぐったような窪みに、ひと滴の涙をためていた。日疋がそう言い終った途端、啓子の体が大きく浪を打って起き上がった。「おめでとう、、、、、。でも、ほんと、それ、、、、?」

二三歩、彼からはなれるように歩を運んで、啓子は、彼に背を向けたまま立ちどまった。

この小説はすぐに吉村公三郎が監督昇進第一作として映画化され、水戸光子が一躍人気女優になったことでも、話題になった。志摩病院の令嬢役の高峰三枝子と看護婦の石渡ぎん役の水戸光子が、誇り高い令嬢か純情な女性かで当時の映画フアンの人気を二分したことも評判になった。

志摩啓子役に高峰三枝子、日疋祐三役に佐分利 信はすぐ決まったが、石渡ぎん役に最初は田中絹代を器用しようとしたが、新監督の希望を入れて貰えず、それまで目立たなかった水戸光子に白羽の矢を立てた。水戸光子は自信がないので、固辞したが吉村公三郎の指導に答えて一躍スタ−ダムに躍り出た。高峰三枝子21歳、水戸光子20歳の時である。

この作品は封切りの時はさほどでなかったが、日を追うごとに爆発的に人気が出た。吉村公三郎監督は後年、最後のシ−ンで、啓子が日疋から石渡ぎんとの結婚を打ち明けられた時、海岸の砂浜を波打ち際の方に向かって駆けていくのは、原作にはなく自分の着想であると言うことを述べている。

この作品は、島津保次郎が撮る予定であったが、東宝に転出したために監督が変更になり、高峰三枝子が、松竹に吉村公三郎を推薦したものである。この作品はそれまでの日本映画には珍しい知的な作品とされ、昭和14年度のキネマ旬報の7位にランクされた。吉村公三郎の出世作である。

1990年5月に高峰三枝子が死去したとき、吉村公三郎はテレビ番組に出演して、若き日に高峰三枝子をエスコ−トしたり、食事したりした楽しい思い出を語って、偲んだいたのが印象に残った。