永 六輔
永さんと初めて仕事をしたのは、昭和38年(1963年)である。テレビの歌番組でスタ−トした私は37年7月の人事異動で副部長になった。しかもこの辞令が出た時、私はインドネシヤのバンドンに出張中だった。
当時の長沢局長の勇断で、発足早々のテレビの特別番組として海外取材のドラマやミュ−ジカルを作ることになったのだ。
たしか第一作はイタリヤを舞台にしたドラマ、その次がミュ−ジカル「バリ島への道」であった。同時進行でドラマ「真夜中の太陽」、同じくドラマ「アラスカ物語」と続けたのだが、このシリ−ズ正直に言って余り成功したとはいえない。
「海外取材で新しいものを作る」というコンセプトだけでスタ−トしたのだから間に合わせの企画と準備不足の制作になったから結果は殆ど成功しなかったのである。
おまけに、番組の収録のかえりに出演者がピストルを隠しもってきたとか、ドラマの出演俳優とスタッフが恋に陥って大きな騒ぎになったとかで、結局大した成果もなくてこの海外取材シリ−ズはたった四作で終りを告げた。
私は37年の6月から8月まで53日間で海外取材ミュ−ジカル「バリ島への道」のスタッフを命じられた。悪戦苦闘だったがこの53日にわたるロケは苦しい一面、楽しい旅となった。
何しろスタッフが七人だったが極めて仲がよかった。主人公のケイコにはキングレコ−ドの童謡歌手だった近藤圭子さんを選んだが、清潔でのびのびした女性を好演した。
私はこの旅行の真最中、中部ジャワのバンドンにロケしている時に局長からの電報辞令をうけた。「テレビジョン局、音楽部副部長とする。ただし出張中は現在の花輪団長の指揮に従え」というものであった。
インドネシアでは屈指の避暑地であり、世界的な会議もここで開催されたバンドンは36歳の私にも大きな転機を与えてくれた。
前にも書いたように私は元々ドラマ志望、苦手な音楽からは一日も早く抜け出したいと思っていたのだが、この辞令電報は私をして「もう仕方がない。これは音楽の仕事で一生を貫くしかない」と観念させられたような気がした。
「バリ島への道」シリ−ズは作品の成果としてはお世辞にも大成功とはいえないが、私個人にとってははじめての海外であり、内容はやってみようとも思っていなかったミュ−ジカルであった。でも53日間ジャカルタからバリ島デンパッサルまで旅をしインドネシアの風土を満喫しインドネシア人たちとの共同作業というむつかしい仕事をこなしたことは、のちのちまでいい経験として生きた。後年局長として中国とのシルクロ−ド制作の交渉をした時などやはり大きな自信となって、現れてきたと思う。「可愛いい子には旅をさせろ」というのは、今でもやはり「その通りだな」と思う。
さて新任副部長として帰国した私には次の仕事がまっていた。私の担当は従来の歌謡曲、民謡の他に、ミュ−ジカルや音楽の作り物まで広く含まれることになったのである。
翌38年からは既にスタ−トしていた「夢であいましょう」のCPと新しくはじまる「歌のグランドシヨ−」も担当せよ、というのである。
「夢であいましょう」の前身はお昼の番組「午後のおしゃべり」だった。CPは佐藤治男副部長、演出は末盛憲彦、この番組の構成をうけもっていたのが永 六輔さんである。
永さんは早稲田の学生だった頃から三木鶏郎さんに誘われて、トリロ−グル−プの構成演出をやっていた。のちにシャンソン歌手として立つことになる石井好子さんの構成演出もやっておられた。(だから50年たった今も、石井さんがおやりになるシャンソンのお祭り「パリ祭り」ではず−つと司会までひきうけて時には歌い手としても登場される)
その永さんが慶応出身の末盛憲彦と組んでやったのが「午後のおしゃべり」でそのウイット、ユ−モアはまことに新鮮だった。二年目には早くも夜のゴ−ルデンアワ−にもってこよう、ということになり、3年目に土曜日の午後10時からの30分になった。
そして折りからの人事異動で新CPになった私に担当の役がまわってきたのである。
のちにサントリ−ホ−ルの支配人から更に横浜の「みなとみらい大ホ−ル」の支配人になった渡壁輝君などがアシスタントをつとめていた。
「夢であいましょう」でアッといわされたのは脚本を書く永 六輔さんのアイデイアだった。「よくまア」「へえ!さすがだ」「ウ−ン」と唸らされる台本を永さんは毎週CPたる私とPDの末盛君のところにもってこられた。
「夢であいましょう」略称「夢あい」は忽ち全国的な大ヒット番組となった。
その理由の一つに「今月の歌」を毎週入れて一ヶ月で次の歌と変えていったことがある。大抵は永さんの作詞で作曲はこの番組のレギュラ−中村八大さんだった。
二人が作ったヒット曲は実にたくさんある。ちょっと思い起こしただけでも「こんにちわ、赤ちゃん」「幼ななじみ」「上を向いて歩こう」「遠くへ行きたい」そして二人としては異色な作品「帰ろかな」などなど。
永さんの作詞のセンスは立派という他ない。誰にも分る易しいコトバを使って心にしみじみとひびくような歌を作られる。今読み返してみても「うまいなア」と思う。
それに永さんのすばらしかったのは、演出の末盛君に対する信頼感である。お互いに交すことばは信頼感に満ちていた。CPの私などニコニコ笑ってそばにいるだけ。つまりこのチ−ムは一人一人がお互いを信頼し合ってしかも十分に磨いてチ−ムワ−クを作っていたのだ。面白くないはずがない。
今思いだしてもあの頃の「夢あい」チ−ムのことは「いいチ−ムだったなア」とうれしくなってしまう。
そしてそのチ−ムの中心に永 六輔という存在があったのだ。
そして30年たった。私はNHKの会長になって戻った。ある時、五反田のホテルで昔なつかしい藤倉修一さんの傘寿の祝があった。私はお祝に参上した。勿論公務が終わったあとなのでJRで出かけた。ホテルへの途中永さんにお会いした。
「オヤ藤倉さんのお祝いですか?」
「そうです。」
「会長は車じゃないのですか?」
「いえ、今日は私事ですから」
二三日たったら、この夜のことが、ある新聞のコラムにのった。コラミストは勿論永六輔である。
「雨の中をお供も連れず、川口さんは歩いていた。お車はないんですか?と聞いたら、うん、今はプライベ−トだから、、、、とおっしゃる。NHKの会長ともなれば堂々と車にのっていいだろうに、、、。NHKの新しいあり方を示すように川口サンはニコニコ笑って雨の中に消えた。」
永サンのこのコラムは島会長の辞任をうけて就任した私にとって、何より大きな応援歌であった。
会長になってから渋谷のシアタ−コク−ンで行なった「夢あいコンサ−ト」に出演した。まだ中村八大さんもお元気だった。永さんのすばらしい司会で皆、生き生きと歌い踊った。
永さんにとっても八大さんにとっても、そして黒柳徹子さんや、坂本スミ子さんにとっても、また、あの小首かしげての中島弘子サンにとっても、なかんずく、御巣鷹山の日航機事故で昇天した坂本九さんにとって、「夢であいましょう」はいつまでも忘れ得ぬ番組であったろう。制作側の私たちにとっても大きな誇りとある安らぎの中で思い起こされる大きな大きな存在であった。