異国での青春のアルバイト
遠藤周作が、横浜埠頭で有島生馬や娘の暁子に見送られて、フランスの留学したのは1950年であった。まだ講和条約が締結されていなかったので、大使館がパリになかった頃である。受験の失敗の連続でやっと補欠入学した慶応大学を卒業し、その頃、海外留学は、今と違って簡単には出来なかった。
勇躍して希望に胸膨らまして、花のパリに滞在すること2年、その春休みに同窓のフランス人学生から、肉体アルバイトの口があるがやってみるかと言われて、行った所がフランスとスイスの国境近くのサボアと言う寒村、その百姓家で1月働くと言う契約だった。
元来不器用で薪割り一つ満足にできないのに、最初から不慣れな仕事に出かけていったのは、背に腹は換えられなかったからだという。
バスで5時間揺られて、着いた村はアルプス山脈の見えるよく絵に見るようなのどかな山岳地帯である。アルバイト先の家には、若夫婦と小さな男の子と女の子がいた。着いたそうそう、便所を貸して欲しいといったら、「小便なら、外に出てしろ。ここの村のうちには便所がない。」と言われて今時フランスに便所がない所があるのに腰を抜かした。当時、日本人は珍しく村人達が見物にやってきた。中には「あんたはチェコから来たな。」と言って日本人だと言っても承知しない老人がいた。
翌日5時に起こされ、牛の牛乳しぼりである。さて困った、こんなことは一度もやったことがない。雌牛の足元にバケツを置いてぶらさがった乳房をギュウギュウ握ったら、牛は暴れだし、バケツを蹴飛ばして農家のオッチャンが絞った牛乳まで、ひっくりかえした。オチャンはびっくりして「もういい、そんなら水くみに行け」ここには水道もなかった。村の真ん中に泉があって、そこから水を家まで汲んでくるのである。よく天秤棒で女子供が、やる仕事であるが、周作にしてみれば未経験で担ぐコツもわからなければ、体力もないので、担いだはいいが、あっちへヨロヨロこっちへヨロヨロでその度にジャブジャブと水があふれ出て、家に着いた頃には容器の水は3分の1も残っていない有り様。
オチャンは怒るより呆れるほうが先で、情けなさそうに周作の顔をジ−ツと見つめて「おら、とんだ奴をやとった。」という表情がありあり伺えた。女房と相談の結果、「もうええ。そんならば、子供の守りをしてくれ」と言い渡された。
裏の牧場に二人を連れて、行って見るとそこは正に天国。頃はよし、手足を延ばしてひっくり返った。地面は暖かく、蜜蜂の羽音が聞こえ、りんごの花の香りが漂いいつのまにか、寝入ってしまった。どのくらい経ったであろうか、ガ−ンと頭を蹴飛ばされたので、目お覚ました。見ると頭上に例の子供が、ニヤニヤしていた。「この餓鬼」とばかり、二人の頬に平手打ちを食わしたら、ワンワン泣きながら、オチャンに告げ口した。オチャンは気の毒そうに「うちは人手がいらない。帰ってくれ。」と言った。仕方ないから、ペコンとおじぎをしてまたリヨンにもどって来た。
遠藤周作はその後10数年経って、なぜかしらないが、オチャンは生きているだろうか、あの村はそのままだろうかと当時を回想していた。これは「春のアルバイト」と題して書かれたものを筋だけ掲載したが、このユウ−モア溢れた文章は何度読んでも面白い。文化の香り高いフランスも一歩田舎に行けば、トイレ一つないなんてウソのような話で、周作の留学生体験談以外にお目にかかったことがなかったような気がする。戦後の留学生は国を問わず、苦学を強いられた。周作によってそうした或る日の異国での生活の一端がこの短い文章に書き残こされたことで、講和条約締結以前の留学生の姿が浮かび上がってくる。