牛肉を犬にさらわれた初恋の話

 吉川英治は自分には青春と呼べるような時代は、惨澹たる家計を背負っていたから、恋愛をしている暇がなく過ぎ去ってしまった。そしてその責任を果たしかけてどうかなりかけると、文学の方へ、わき眼もふらずに入ってしまったからである。

 だから初恋はなどときかれると、正直にさがしてみても青年時代は全くない。強いて言えばどうしても、小学生時分の淡いものを持ち出すほかない。

 尋常小学校4年生ごろに、時事新報社から出す「少年」という雑誌に、吉川少年が当選したのと並んで、同じ学校の女生徒で選に入っているのがいた。そしてその生徒の作文を見てから、その女生徒がいっぺんに好きになってしまった。

 家が近所なのでたえずその門の前を用もないのに通った。そこを通る使だと、女中の行くの引ったくっても自ら行った。

 或る時ネギと牛肉をかかえて歩いて来ると、向こうから好きな女生徒が母らしい人と盛装して来るのと行き合った。どういう気か吉川少年は牛肉とネギを原の草叢へ捨ててしまって、お辞儀を交してすれ違った。

 後から牛肉を取りかえしにゆくと犬が咥えて逃げていってしまった。