藤浦 光
戦後のラジオで大変な人気を博した番組の一つに「二十の扉」がある。「ギ−ツ」と扉のあく音がして拍手が湧くと「二十の扉!」と進行のアナウンサ−の声に続いて「それは動物ですか?」「生きてますか?」「食べられますか?」など解答者の声が入って「さあ皆さん、二十の扉を始めましょう!」で番組が始まる。トエンテイ、クエッションズというアメリカのラジオ番組をほぼ直訳したいわゆる輸入番組であるが、アメリカのよりも面白い、といわれた。一つは司会の藤倉修一アナウンサ−のうまさによるが、レギュラ−の人選も又よかったといえる。
当初は宮田重雄、大下宇陀児、塙 長一郎、関屋五十二、竹下千恵子の五人、のち竹久に代わって柴田早苗、関屋に代わって藤浦 光となった。
あとで藤倉さんにきいたところでは、冒頭のアナウンスは9秒了でいわねばならぬとされ、解答者とのやりとりも、緊迫感とユ−モアが何より必要だったという。ナマ放送だったため、うしろの方には一分ゲ−ムを用意してピタリと終了時間に合わせるなど結構努力が必要だったという。
この「二十の扉」で、途中からのレギュラ−となった藤浦 光さんは、すばらしいカンでアッといわせる解答を出した。
ある新聞がこれは事前に答を洩らしたものと思って、徹底的に追及したが、事前に漏洩全くなしと分ってあやまってきたというエピソ−ドがある。
その藤浦 光さんは元々は詩人である。作詞家としては「水色のワルツ」「雨のブル−ス」のような大ヒット作があり、すばらしい「ことば」をえらびとるセンスが、のちにクイズの解答者となっても発揮されたものだろう。
藤浦 光さんのトレ−ドマ−クは一寸おっ立った髪だった。そして皺の多いお顔であったが、なかなか味のある渋い表情をされて司会が問題をいうとサッと手を上げられる。「な、そうだろう!」とか「これ間違いないよ」とかいわれる。満場の客も他のレギュラ−もどっと爆笑する。
それは天成のユ−モア人たる藤浦さんにとっては極めて当然の言行だと思われていた。でも、藤浦さんのお人柄を知るとそれは天成のものだけではない、相当の努力のつみ重ねだったと思わざるを得ない。
私は「私の秘密」のあとの時間「歌の広場」との組み合わせで、一度、地方へご一緒したことがあるが、藤浦さんは汽車の中でも、旅館についても、会場の楽屋でも、夜の会合でも常に皆さんの中心だった。「私の秘密」のレギュラ−だった藤原あきさんが藤浦さんのお話に笑いころげて「もう苦しいからやめて!」といわれるシ−ンも見た。
藤浦さんは常に一生懸命だった。何時でも何事に向ってもムキになって取り組まれた。それが考えられないほどのカンの冴えを生み、時にはたぐい稀なユ−モアとなってほとばしったのだ、と思う。私の担当番組「黄金の椅子」にも出演していただいたことがあるが、この時など打合せの時からのりにのって「そこは、こういこうよ」「そこには誰ソレを呼んでこようよ」「こんな演出はどう?」などとプロデユ−サ−顔まけの企画者、演出者だった。
そのお話のまあ面白いこと!これがあの哀愁こもる「水色のワルツ」や「雨のブル−ス」の作詞家とはとても思えぬ幅の広さがあった。
つくづく思ったのだが人々は専門の一つの道しか歩けない、又歩かないタイプの人もあれば、何をやっても一人前、以上にこなしてしまう万能型の才人と二つある。藤浦さんは正にその後者の例だということだろう。藤浦さんは時には軽薄と見られることもあった。
だが藤浦さんは決して軽薄などではなかった。出来るだけ気転をきかせて全体のまとめ役になってやるという親切心から出たものだった。
あきれるくらいシャイで心やさしい藤浦さんが表面的には軽薄の裏にひそんでいたのだ。旅に出て二人きりで話をするとそれがよく分かった。ポツリポツリといろんなことをしゃべって下さる藤浦さんに私は限りない親しみを覚えた。
今でも「それは、こうなんだよな」と少々てれてお話しになる藤浦 光さんの表情やことばが私の脳裏に浮かんでくる。