藤原義江

 2000年9月からの新国立劇場の秋シ−ズンのトップを飾って小劇場オペラ「幸せは間違い」が上演された。

 私の大好きなロッシ−ニの音楽がたっぷり聞かれる、しゃれた味の小劇場オペラだという。あのロッシ−ニの若い日の作品、私は好奇心にかられてさっさと観に行った。なるほど小ぶりのオペラだがのちに私たちを大いにたのしませたメロデイの数々はもうここで開花し始めている。ロッシ−ニの曲にうっとりしていると、ふと遠い昔のことを思い出した。

 実は私がオペラなるものに初めて接したのがロッシ−ニだったのだ。1948年(昭和23年)私は東大の2年生だった。当時の大学は動員から戦場へと暗い日々を送ってきた若者がやっと自由な空気の中で新しい生活を謳歌しはじめていた。「さあ、なんでもいっぱい見て、聞いてやろう!」と気持は高揚していた。だが廃虚と化していた東京には碌なホ−ルも劇場もなく、我々は大学の25番教室や38番教室に音楽家をよんでやっと音楽の飢えを満たしていた。

 当時の我々に人気のあった音楽家にピアノの原 智恵子、バイオリンの諏訪根自子、巌本真里、声楽の佐藤美子、大谷 子、木琴の平岡養一などがいた。

 冬は冷房完備、夏は暖房完備という教室で兵隊の時の外套を着たり、下駄を履いたりの学生だったのだが「いつ死ぬのか」という心配なしに音楽を聞けるのは大変なたのしみであった。

 そんな中で、帝国劇場(多くの戦災にあった中では奇跡的に残っていた)で「セヴイラの理髪師」を聞いたのである。

 1948年(昭和23年)3月のことである。この初めて見たオペラは私の心をとりこにした。

 プリマドンナは大谷 子、勿論、藤原義江とのすばらしいコンビが売り物であった。

 はじめて見る藤原義江は魅力的であった。日本人ばなれのした高い鼻、彫りの深い顔つき、堂々たる恰幅、それに加えて聞く人の心をゆするようなテナ−。ちなみに、この人を「我等がテナ−」と呼んだのは朝日新聞の原田穣次記者だったそうな。又、藤原さんのちょっと変った発声をとらえて「藤原ぶし」とよんだのは評論家の堀内敬三さんだそうだ。はじめて聞くオペラ、初めて見る大スタ−、この夜の経験は私にとっては大満足だった。

 更に大谷 子というコロラチュラ、ソプラノが私を完全にとりこにした。こんな美しい声がこの世にあるんだ!と私はうっとりしていた。

 時、移って私はNHKの音楽プロデユ−サ−になった。そして藤原さんを主人公に「黄金の椅子」という番組を作ることになった。

打合せは帝国ホテルで行なった。日本のオペラの初期を築き上げるのに藤原さんはその私財をなげうって、鎌倉山のお宅も借金のカタにとられ、犬丸社長の厚意で帝国ホテル住まいをされていた。

 今は明治村に移築されているが、あの有名なライト氏設計のモザイク型の入口を入って藤原さんのお部屋に伺った。

「やあいらっしゃい!」あの藤原さんが、若僧のプロデユ−サ−をいとも気軽に請じ入れて下さる。そしてニコニコとそれまでの音楽の遍歴を話して下さった。何という魅力的なお話であったことか!

 そこには「我等がテナ−」として一代の名声を博した藤原義江さんがいた。

 かけ出しのプロデユ−サ−である若僧を10年の知己のように扱って下さる!率直にお話をしてくださる!打合せが終る頃には藤原義江という人が私には誰にも代えがたい存在になっていた。

 藤原義江さんは昭和51年(1976年)3月22日なくなられた。この日はNHKの放送記念日であって、私は式典が終ってそのことを聞いた。私の耳の中に、あの歌声と「やあいらっしゃい」という帝国ホテルでのお声が聞こえた。