芸能人列伝(1)
私の50年人名簿から
藤山一郎
NHK名誉顧問 川口幹夫
私がNHKにはいったのは1950年(昭和25年)である。ことしは2000年「あっという間の50年」だったのか、「行きつ戻りつの50年」だったのか、恐らくその二つとも正解だと思うのだが、どっちにしろ今は思えば遠くへ来たもんだ」という心境に変りはない。
その50年の放送界、芸能界でめぐり合った数多い人たちの中から、想い出すまま、感ずるまま私なりの人名簿をくってみようと思う。
1、藤山一郎さん
この方にはNHK入局前に会っている。時は1949年、私はまだ東大の3年だった。知り合いの人の紹介でNHK見学に行った時だ。当然場所は千代田区内幸町(今の港区西新橋)旧NHK放送会館である。
のちに色んなことを知るのだが、まだこの頃は放送会館は進駐軍に占領されていた頃だから、いかめしい大理石の玄関を入るとGHQ専用の階があったりしていかにも物々しかった。見学者一同は内玄関から入って三階にあった第1スタジオに入る。ここは天井の高い200坪ほどのラジオスタジオだが、観客を入れて「ラジオ寄席」とか「今週の明星」とかを公開する。従って通常のスタジオと違って客席とは一段高いところに舞台(というほどのものではなかったが)がこしらえてあった。
細かいことは忘れてしまったが、あとで考えると指揮は久岡幸一郎さん、伴奏、東京放送管弦楽団、合唱、東京放送合唱団。あとでこれらの人はすべて私の日常の仕事のよき出演者となって下さるのだが、この時は自分がまさか歌番組を担当するとは思ってないから一般の客と同じように華やかな歌番組にただただ酔っていたように思う。
それは「今週の明星」のナマ放送だった。何人かの歌い手が入れ替り立ち替って歌った。当然華やかな女性歌手もいただろうに、何と私の印象はその時のトリ(中心の出演者、大抵は最後のしめくくりを歌う。トリをとるとはこの世界では大変なことだということも、ず−っとあとで知る)を歌われた藤山一郎さんのことだった。
当時の私は、といえば歌舞伎に凝っていたから、歌謡曲もシャンソンもジャズもタンゴもクラシックさえも殆ど知らなかった。
ただ藤山一郎という名だけはよく知っていた。東京音楽学校在学中に、本名増永丈夫では退学になるので藤山一郎という芸名を名乗った。藤山(フジヤマ)は富士山(フジヤマ)に通ずる。日本一の歌手だから一郎とこれは思い切った芸名だった。だから次々にヒットをとばされた藤山さんはずいぶん長いこと本名増永をかくしておられた。
私のような音痴でも「藤山一郎」という名を知っていたのは「丘をこえて」「酒は涙か」「影を慕いて」で始まって次から次へと大ヒットをとばしいつの間にやら藤山一郎という大きな名前になってからのことだった。戦後も「夢淡き東京」「長崎の鐘」などで大ヒットをとばされ、押しも押されもせぬ歌謡曲界の大御所だった。
私の事前の印象では藤山一郎さんは堂々たる恰幅で、白色の美男子で正に「歌謡界のプリンス」という存在に外ならなかった。
第一スタジオで初めてみる藤山一郎さんは色の黒い、小柄の余り目立たぬ歌手だった。「へえ、、、、、これがあの、、、、」と印象のちがいに私は当惑した。勿論、歌はうまいのは当然で「いい歌だな」とききほれてしまった。その藤山一郎さんと面と向ってお話が出来るようになったのである。
私はその翌年昭和25年にNHKに入った。ラジオのみの時代だった。そこで3年間コツコツとラジオの番組を作った。社会問題(当時は炭坑問題が大きな問題だった)学校新聞(ニュ−スをこども向けにリライトしてアナウンサ−が読む)そして当時はやりはじめたデスクジョツキ−番組。ラジオ文芸(短歌、俳句、川柳、詩などの聴取者文芸)、県からのおしらせ。などである。
2年目に入って自分の番組がもてた。こどもの合唱団も作った(この人たちとは今も交流が続いている。この2000年の夏も鎌倉で土地の合唱団と交流音楽会をやった。当時の6年生は何と60歳になっていた。)でもラジオの3年間は地味で実直であった。
昭和28年、私は転勤した。
福岡放送局放送部から、本部(東京)テレビジョン局芸能部である。芸能部長の安藤さん(有名なバイオリニスト 安藤 幸(こう)さんの息子さん)は私に「君イ 音楽をやってくれ」 私はビックリした。「私オンチです。歌は余り知りませんし、譜面が読めません。ジャズは大嫌いです。ドラマやらせて下さい。安藤さんはジロリと私をにらんだ。「君は出来ないから音楽をやるんだ!」
それからは難行苦行だった。初期のテレビ番組のことだから歌番組は歌手を撮るのみ、ジャズ番組やクラシックは演奏している楽器をピックアップするだけ。民謡はおどりを入れてごまかす。当時東京地区のテレビ視聴者は1953年2月で866世帯だったというから私が番組を作っていたころ(53年4月− )ごろはそれでも1000世帯はあったろうか。このテレビが昭和32(1957年)には100万台となり昭和37年には1000万台となるのだ。
さて、そのテレビスタジオで私は再び藤山一郎さんにお目にかかるのだ。こんどは
AD(アシスタント デレクタ−)としてしげしげとお話した。藤山さんは歯切れがよかった。ひとことひとことを極めて明瞭に発音された。声色の人がよく真似して「さ、ミナさン マイリマショウ!」というフレ−ズなどは全くそのままであった。「歌はことばです。何を歌っているのか分からないのは歌ではありません!」今の(2000年)ポピュラ−な歌を聞くと何を歌っているのかさっぱり分からない。しかもこの頃では日本語の歌詞に英語がまざったり、スペイン語がまざったりする。「藤山さん 悶死されるな!!」と私は時々思う。
藤山さんでもう一つの印象的なのは体のこなしである。シャレタ背広を着て颯爽と!というのは当り前だが白い服にアコ−デイオンを持って歌われたり、ゴルフシュ−ズに半ズホンスタイルということもあった。いずれもサマになっていた。
しかもまことにサッソウと登場される。後年びっくりしたのだがあの紅白の高い高い階段から一気にかけ降りたこともある。足にいささかの狂いもなかった。
「藤山さんスゴイですね。下をごらんになりませんでしたよ!」と私はびっくりして聞くと、
「下を向いて階段を下りるのは下の下です」
「でも危いでしょう、思わず下を見ませんか?」
「ですから何度も何度も稽古するんです!視線は客席の一部から離さないのです」
私も自分でやってみた。こわくて出来るものでない。
後年藤山さんは体調をこわされて入院された。お見舞いに行った。私の姿を見るなり藤山さんはシャンとお立ちになった。
「ありがとう、ありがとう、もうすぐ直ります」
そばから奥さんイクさんが言われた。「紅白のカイダンを下を見ないで降りるんだ、そういってきかないんですよ」
ことばを大切にされた藤山さん 階段をスマ−トにかけ下りた藤山さん。藤山さんは永遠のダンデイ−だった。
今愛宕山のNHK放送博物館に奥さんのご厚意で、紅白すべてのトロフイ−(出演者に一本ずつ贈呈したもの)と藤山さんの最後まで愛用された指揮棒などが飾られている。