父福本和夫の晩年

福本逸子

又筍の季節到来。植物大好き人間の父は、特に竹を好んだようだ。家の庭には根曲り竹、寒竹、錦明竹、四方竹、黒竹、真竹、孟宗竹,大明竹、おかめ笹、稚児笹、が何れも元気に育っている。孟宗竹は根付が悪く、三度目で漸くついたのだというのに、現在は、はびこりすぎて手に余る程となっている。そんな筍を前衛的によく揮毫していた父の姿がおもい浮かぶのである。

樹は自然のままがよい、と切るのを格別嫌がるので、私は父の不在をねらってこっそり切っておくと、必ずといっていい位見つかってしまい、「留守に切ったね、駄目だよ」と渋い顔して叱られたことは、一度や二度ではなかった。

混みすぎた枝は切ってすかしてやれば、風通しがよくなり、以前にもまして木の成長が早い。と私も主張を変えることはなかった。

そんな父なのに、米寿を過ぎて体が弱ってからは、樋が詰まって困るわと言うと「じゃ切ってもいいよ」とお許しがでるようになった。

物書き数ヶ条

自分の本や論文に引用した資料は、必ず丁寧にその著者の名前を記すこと、「これが物書きのなすべき大切なエチケットである」とかねがね自分も実行し、主張し続けていた。その上に「人の真似ではなく、オリジナルであることが重要。一般に研究されていない穴場を見つけるとよい」と若い人たちに話していた。

研究執筆の方法は可成個人差があると思うが、父は頭の中で父の構成を組み立て、組み立てが終ると午前中は集中して書き、遅くとも夕方でペンをおいて、夜は西部劇をよく見ていた。

まわりに音の出るものは禁止、執筆期間中は頭が重くなるからと、パン食に切り替えて殆どパンにコ−ヒ−の食事だった。時々オ−トミ−ルのこともあったが、オ−トミ−ルは文部省在外派遣研究員として、ヨ−ロッパへ行く途中の船中で味を覚えたそうである。

一応、一冊分書き終えると、手許に残す原稿を書き写しておくのが私の役目だった。書き終えて暫くは、何か画竜点睛になるような資料は無いかなあ!と一人ごとを呟くのであった。そうこうしているうちに、何処からとも舞い込んで来ることが多かった画竜点睛に相当する資料は、多くは読者や友人から寄せられることがあって、そのご好意に父は相好を崩し、その父を眼のあたりにして、私も喜びを共有していた。

冷え性だった父は、夏でも靴下を愛用していたが、紅茶は敬遠していた。トイレに近い四畳半に大きい堀炬燵を特注して、作り、腰掛け式テ−ブルの上で執筆した。この和室は日当たりがよい上、富士山や海も眺められたから、物を書くのには絶好の部屋だったようである。隣家近くないここはピアノの音も聞こえず大変よいとこよなく愛していたのが、私もその年に近ずきつつある今、始めてうなずけるのである。

時々卒論とか論文に手を入れてくださいと、手紙をそえて郵送されることがあったが、父は赤線を引いて修正したりするのは好まなかった。

例えば本人から直接、ここはこう考えるのですが、どうでしょうかときかれれば、それはこうしたほうがよいと、答えてあげるという方法の教授法だったから、一部の人には不親切と思われたかもしれない。

近所からうちの息子に家庭教師をしてほしいと頼まれたが、父はそのような小さなことをする人間ではない、と即刻お断りしたそうだが、それ以後は挨拶をして貰えなかったそうだ。

神奈川県は村芝居の舞台の多い所だったことを知って、暫くはよく調査に歩いたそうである。二松学舎の教授をされていた、腰越の山の上に住まわれていた飯塚友一郎さんも御一緒だったようだ。

調査の一方で、盆栽になるような結構重い石を持ち帰ったりして、飯塚さんから頂いたというさびてボロボロになった大きい鉄の水盤に石を置き、その周りには、当時興津にあった西園寺公望の別荘、坐漁荘で拾ってきた小石を並べて、悦に入っていた。

徹底して父はバスに乗ることが嫌いだった。どうしてかいまだにその理由はよく判らない。駅から家迄を、私はバスの通る国道を歩き、父は団地のほうを歩くのが常であった。一度だけ、駅をヨ−イドンで出発し、私はバス通りを歩いてかえり、父は自分の好む団地のほうから帰る。やはり私のほうが先に着いたので、団地の方からのほうが坂があったりして多少遠道であることを証明出来たが、父は晩年まで自分の好む道を歩き通した。

夏は江ノ島、七里ガ浜まで、家から歩いて泳ぎに行ったり、流木拾いに凝ったこともあって、龍の形や龍の落し子のもある。

理髪店へもとうとう行かずじまいで終わったので、仕方なく道具を揃えて、私の素人散髪で通してしまった。故藤山愛一郎さんのように銀髪になりたいと、望んで口にもだして話していたが、とうとう願望はかなえられなかった。

終戦直後、当時住んでいた保田まで、藤嶺学園関係の方が父を招聘に来られた。一度はお断りした由だが、再度のお招きに恐縮して藤沢に来ることになって、始めて単身来藤、暫くして八洲台グリ−ンハウスの二階に、私と未亡人となって父の許に同居していた父の実妹と三人で生活を始めた。

空いた土地があったので、トウモロコシや粟を作った。古道具屋で臼を求め、新しい石うすも買って粉に挽いたり、粟餅を作った。その味は今でも忘れられない。

丸3−4年して、そこに住む人が増えてきたこともあり、立退かねばならなくなった。立退料で現在地(西富大光町69のち住居表示で大鋸と地名変更となったが)に新築して移居し今日に至っている。

麦畑で水が出ないため、人が住めなかったという道路も無い土地だった。終戦後で地主が耕作しなければ、農地解放により取り上げられた時代である。当然父の物になった筈であったが、画家の鳥海青児さんを知っていたところから、鳥海さんと清浄光寺の末寺、赤門さんの吉川和尚と友人で父も鳥海さんを通じて知り合いとなった関係から、吉川さんに懇願されて父は、清浄光寺へ土地の返却を承諾したそうだ。

のちに私が請願書を提出して署名を集めて申請し、水道を引いたり、道路を市道として査定して貰い、本下水道も出来て、立派な住宅地としたのである。立派な開拓者と胸を張っている。

ここに父は我が意を得たりとばかりに、色々な樹木や植物を植えて楽しんだというわけである。同じ種類を必ず2−3本植えないと気の済まぬ父だった。一本では枯れることもあるから心配なのかもしれない。

八洲台に住んでいた頃には、農民版画家、飯野農夫也、後に切り絵作家となった滝平二郎、当時腰越の山の上に住まわれていた丸木俊の各氏と湘南版画協会を発足させ、本町にある済美館を会場に青少年達と活動していたし、日中友好藤沢支部の設立にも熱心だった。 若い学生さん達が来ると、新しい場所へ引越したら、その近辺を歩いてよく知ることを提案していた。

自らも旅費に事欠く頃でも、メンソレタ−ム兄弟を尋ねたり、和歌山の山林大地主を調査したり、太地浦の捕鯨業を実地に調べたりと始終足で歩いて本を書いたのが藤沢でだった。

講演旅行にも方々へ行ったようだが、80歳を過ぎてから、請われてNHKに二度も続けて出演した。今にして思えばいくらか体が弱っていたのかも知れない。もっと早くにこうなっていたら、よかったのにと或る時ぽつりと漏らしたことがあった。

父は煙草も吸えず、下戸のため、梅酒も飲めぬと言う程であった。甘いものは好んで食べたが、小食で間食は余りしなかった。

江ノ電百貨店で一年にふくろう展と著作50年展をした時は、食事する暇もなく、一日に数回も徒歩で百貨店まで往復する羽目になったが、終った後で頬がこけていたのを見た私は、疲れが出たのではと心配になり休むことをすすめたのだが、そのあとで風邪を引いてからは、筋肉痛が出たり等少しずつ弱って近所の皆さんから、姿勢がよいとほめられていたが、背骨が曲がってきて、よく歩けなくなってしまった。

そんな折り、鳥取県立博物館から三谷学芸員が来られて、前田寛治作の父の肖像画を寄贈して欲しい旨の申し入れがあった。父はいずれは寄贈するが、[僕の亡くなった後にしてください]と言うのだった。

私があんなに言われるのだから、承諾するようすすめても頑なに聞かなかった。従って父の死後、私から寄贈したのだが、父は娘の私に花を持たせたかったのでは、と気つ゛き父親の愛の深さをしみじみと味わったことであった。日常余り細かいことは言わず、自由にさせて貰えてことに感謝している。

親はいくつになっても子供と思っているらしく、亡くなる2、3日前「悪い人に引っかからないように、今まで苦労させたから、一人になったら旅行して楽しみなさいよ」と言う言葉を残してくれたが、忘れられない。

最期の朝、書棚から本を取ってと言い、それを胸の上に置いて静かに自宅のベッドで深い眠りについたのだった。

先輩の訪問する折りには、5分前には先方の家の前に着くよう心掛け実行していたという父は、約束の時間に遅れてくるお客さんに、渋い顔をしていたが、今はあの世でどんな先輩をお訪ねしているのであろうか。