福田垂穂

 7月20日(土)梅雨が明けて、カッと夏の日射しがさした。強烈な暑さの中で福田垂穂さんを偲ぶ会があった。東京、芝白金の明治学院大学である。

 福田垂穂って誰?と皆思うだろう。

 私の旧制第7高等学校の同級生だった人、もっとも同級生といったって、この人は、私が7高に入った1944年(昭和19)年に一年先輩だった。その前年43年に入学したが、体をこわして留年して一年あとの私たちの組に入ってきたのである。ドイツ語では「落ちる」ことを「ドッペル」という。

 福田さんは一年先輩だったが、ドッペツてきて一年あとの私たちの組に入ってきたのだ。出身は京城公立中学校(今のソウルである)である。温和で重厚でいかにも一年先輩という雰囲気があった。

 だから我々も、又、同級生ではあるが、「福田さん」とさん付けで呼んだ。事実、年も二つ上だし、7高生活を一年でも経験していて貫禄も十分だった。

 その「福田さん」と私が断ち難く結ばれたのは戦後になってからである。私たちが兵隊に行っていた間に、7高はアメリカ軍の猛爆を受けて、鹿児島、鶴丸城跡にあった歴史的な校舎をすべて焼失していた。

 復員してきた私たちに、学校からは「新校舎を探している。学校再開は追って通知する」といってきた。ほぼ市内が焼失した鹿児島市に授業出きる建物がある筈はない。

 熊本県境に近い出水郡高尾野町に古い海軍航空隊があった。ここの兵舎をそのまま使うことにきまって授業再開は昭和20年10月26日ときまった。

 今でも鶴の飛来地としてこのあたりは有名だが、当時でもシベリヤからの鶴は海を渡って出水に飛んできていた。

 我々は出水郡の五つの町村にそれぞれ下宿して高尾野校舎に通ったのである。勿論食べるものはほとんどないあの戦後風景の中である。だが集まった我々は一様に、平和のありがたさを実感していた。「もう戦さで死ぬことはない。安心して本が読める」

 何はなくともそのことが有難かった。兵舎を少し変えて授業をうけたのだが、荒涼たる風景の中でも、やはり青春は緑だった。

 翌昭和21年(1946年)我々は3年生になった。

 何もない中で色々な活動が始まった。

 秋になった。

 久しぶりに自由な中で「記念祭をやろう」ということになった。そしてその日取りがきまり、併せて記念祭歌を作ろうということになった。掲示板にはデカデカと「記念祭歌募集!」の紙がはられた。

 応募してみよう!と私は思った。

 死なずにすんだ、その安らぎ、何かをやろう、何かがやれる!その胸の高鳴り!

 私は夢中になって詩を書いた。

 昔の旧制高校の歌は、殆んど学生の手になるものだが、そのどれもに共通するものがあった。自由、独立、孤高、「治安の夢にふけりたる栄華の巷低く見て、、、、」とか「誰か立たざるこの時に、、、」とか世を嘆き悲憤慷慨する歌が多かった。

 戦いから帰った私にはそのたぐいの歌はもうごめんだった。

 碧瑠璃の空に秋風満ちて

 白雲ただよひ流るるきはみ

 海涛ゆたかにうねりて続く

 不知火大海の水清らかに

 鴎は舞い飛ぶ 美はしき国

 ああ我等ここに集ひて

 新生の狼火(のろし)をあげむ

 以下五節あるが、すべてこれ北薩地方の海や山や川や鳥や自然の風物を歌っている。

 旧仮名遣いで書かれたこの歌の中に私は「もう戦争はごめん。たぐいない日本の自然のみを歌って、新しい時代への狼火にしよう」と思っていた。

 記念祭歌選定委員会はこの歌を昭和21年度の記念祭歌に選んでくれた。

 そして作曲を、やはり文科三年の福田垂穂さんに依嘱したのである。

 福田さんは、この長い長い歌詩に淡々としかし思いをこめた曲をつけてくれた。

 その思い出の人、福田さんが亡くなった。

 明治学院大学で副学長をしていた福田さんは、大学にとって極めて大切な人であった。

 特に児童福祉の世界では大変な仕事をたくさんしている。

 この福田さんが6月16日、日曜日に急逝した。しかも日曜の礼拝に行った教会で倒れ、そのまま逝ったのだ。

 敬虔なクリスチャンだった福田さんらしい神への召され方だと思うが残念でならない。

 7月20日の偲ぶ会には学生を含めて沢山の人が集まった。

 皆が福田さんの在りし日の温顔を思い起していた。私も又、あの時のあの記念祭歌を思い起していた。

 8月9日には長崎で札幌ミュ−ジカルの公演をやる。私が脚本を担当した修道師ゼノさんのお話だ。

 そういえばあの長崎原爆の日、私たちは長崎造船所で動員されていた理科の友だちを14人も一度に失っている。

 6月も7月もそして又8月もことしは心の痛む日がつづけて何日も来る。