フランキ−堺

 鹿児島県人の芸能人で忘れられないのはフランキ−堺である。特異な容貌で一目みて、「あ、この人、カゴシマ人間!」と思った。

 初めて会ったのは昭和29年か30年である。彼は昭和4年の生まれだから大変に元気がよかった。

 勿論、役者としてではない。たしかコンボバンド(シックスレモンズといったと思う)のドラマ−であった。

 見るからに愛想のよい男であったがそのドラムは切れ味が鋭くいいドラマ−だな!と思った記憶がある。同じ頃に白木秀雄というドラマ−がいたし、ちょっと先輩に当るがジョ−ジ川口は私と同年の1926年(大正15年)生まれであった。

 ピアノ中村八大、アルトサックス与田輝雄、テナ−サックス松本英彦、トランペット松本文男、ピアノ中村八大、、、、とこう書いてゆくとあの時代、戦後日本のジャズやラテンの一つの興隆期であったんだな、と納得させられる。

 その中でもフランキ−堺は、同郷の出身だということで、初めから一寸したシンパシ−を感じたものである。

 気さくで、面倒見がよく、ドラムがうまくておまけに日劇ダンシングチ−ムにいた花子さんというきれいな人をお嫁さんにして、、、、。「この人物、単なるドラマ屋ではないなア」と思っていたのだが果たせる哉、彼は次々と自分の活躍の分野をひろげて行った。

 自らの名をつけた「フランキ−堺とシテイスリッカ−ズ」というフルバンドを作ってみたり、ウ゛アライテ−に出演しては本職のコメデアンもはだしで逃げる芸のうまさ。

 遂には映画「幕末太陽伝」で居残り左平次役を演じて映画フアンをアッといわせた。

 そうさう役者としてはテレビドラマ「私は貝になりたい」の主役もフランキ−だった。私の同期のデレクタ−岡本愛彦がNHKからTBSへ移って作った芸術祭参加作品だが、B級戦犯とされて死刑にされる元日本兵を演じて、大方の涙をしぼらせた。「今度生れ変る時は、海の底の貝になりたい」というセリフには思わず胸が熱くなった。

 私はその頃なかなかフランキ−と会う機会はなかったがたまに会うと「川さん、今度テレビで何かやってよ」とあの人なつっこい四角い顔で言っていた。

 そこでフランキ−を主役にしたウ゛アラエテイを作ったのだ、がこれはあんまり成功しなかった。

 ドラマで大ヒットして、映画で主役を演じてその頃のフランキ−堺は既にして単なる音楽人ではなかった。勿論ただのドラム叩きであった筈がない。それでも彼は「ボクはやっぱりミュジシャンなんだからねえ、何かやらせてよ!」彼は会うたびにそういうのだった。「よし、この男に何かドエライことをやらせたい!」そう思わせるものがあった。

 残念ながら、私は音楽のCPとしては彼と組んでいい仕事は出来なかった。そのうち私はドラマ部長になった。「よし、今度こそ!」そう思った時は彼は大変な売れっこだった。

 故郷を同じするものはどこか、兄弟のような親近感をもつ。鹿児島出身が集って欣交会という会を作っている。錦江湾の錦江をもじったものだが、この会のゴルフ大会で何度か一緒になった。

 帰りのバスの中で、「ねえ、なにかやりましょう、先輩!」と彼はよく言った。「うん。頼むよ。フラさん!」と私は答えた。実際その頃のフランキ−は演技的にも人間的に奥の深い魅力を出せるようになっていた。次なるフランキ−の大作を、と私は考えていた。そこへ悲しいしらせが、飛び込んできた。フランキ−堺入院、ガンだった。退院してきたフランキ−とある会合で会った。頬がこけて見るからに痛々しい姿だった。わざと「大分元気になったね!」というとあの目をニコニコとさせながら「もう大丈夫です。又いいドラマやらせて下さい!」といった。でもそれから間もなく彼は再入院し、そして亡くなった。惜しい人材だった。まだまだいくらもいい仕事が出来たのに!

 あのエラの張った顔がなつかしい。