二葉あき子 コロンビア.ロ−ズ

 ゆうべ、二葉あき子さんと話した。二葉あき子。86歳。場所はコロンビアレコ−ドの後輩、コロンビア.ロ−ズデビュ−50年の夕べである。

 ロ−ズの方は私が1950年、NHK入りした翌1951年コロンビアに入社、大体同じ頃に仕事をしているから、これはやはり同窓会的心境で行かねばならぬ。その会場に二葉さんがいらしたのである。しかも極めてお元気でニコニコお笑いになって、、、、。

「NHKでお世話になった川口です」とお席へ伺ってご挨拶すると「まア、お久しぶり。お元気ですか?」とあのニコニコ顔が返ってくる。「アンラ、まアあんた、あの頃坊やだったねエ」といきなり、きついおことばが返ってきた。淡谷のり子さんとは大分違う。

 そうスタ−時代の二葉さんも、やはり淡谷さんとは違っていた。二葉さんは広島のご出身で、大変飾らないお方なのだが、いつもニコニコと笑っていらっしゃるだけで、軽口ひとつ叩かれない。勢い、私たち若手プロデユ−サ−とザックバランに話すこともなかった。

 昭和20年台の二葉さんは歌謡曲界の大輪の花だった。「水色のワルツ」をはじめとして「夜のプラットホ−ム」「フランチェスカの鐘」「別れても」「村の一本橋」などを大ヒットが続いた。

 二葉さんはいつも楚々とした身なりであった。おまけにことばが少ないものだから、新米のプロデユ−サ−であった私など、側に行くのが恐れ多いぐらいでその頃はロクに話もしなかった。

 のちにCPや部長になって個人的に話をしてみるとこれが案に相違して極めてアッサリしたつき合いやすいお人柄だった。

 情感たっぷりな歌が多かったから、一方的にこっちからそうきめていたからに違いない。

 その証拠に「村の一本橋」という歌はまことにリズミカルで二葉さんの持ち歌としては一風変わった歌だったが、まことに見事なリズム感で歌っていらっしゃる。

「あゝうまい歌い手さんだなア」と若手プロデユ−サ−の私は感心しながら仕事をしていた。

 今50年を経て、パ−テイ−の席上でさしで話すのは楽しかった。二葉さんは生き生きと話された。「この所、毎年、都内でまとまったコンサ−トやってます。川口さん ききにきて!」

 相変わらず言葉少ない二葉さんだったが私はその若々しい意欲に打たれた。今度こそ、私も足を運ぼう。そしてあのうたこのうたに耳を澄まそう。

「あゝあの人と別れた夜は、、、、」

「林の一本橋や恋の橋、、、」

 一ぺんに50年前に若返りそうだ。

 50年前といえば、当夜の主人公のコロンビア.ロ−ズ(初代)も元気だった。少々ふくよかになってはいたが、その昔を思い起こさせるところがあった。

 お互いに新人であったわけだが、あのカオで「東京のバスガ−ル」はいいとしても、「どうせ拾った恋だもの」なんてスゴミのきいた歌は、一寸違和感があった。しかしその違和感が却ってよかったのだろう。歌は大ヒットした。

 少々音程は下ったようだが、初代コロンビア.ロ−ズこと斎藤まつ枝さんは意気軒昂だった。ゲストの人々が「ズ−ちゃん、ズ−ちゃん」と呼びかけていた。これは極めてなつかしいよび方だった。

 新人が台頭してくるのはとてもいい。だが旧人が、「まだまだ」といって精一杯意欲的に生きているのも又いい。