「言海」の跋文に励まされた話
大槻文彦が、明治23年「言海」の完成を真近に控えて、妻子を伝染病で失った。知人の高崎正風の夫人が、その都度弔問に訪れた。その夫人が翌年の春、死去した。今度は大槻文彦が、お悔やみを述べに高崎邸に行ったが、正風に会えなかった。そこで、出来上がった「言海」を置いて、辞去した。
数日後、高崎正風は、大槻文彦に会って次のように述べたと言う。「 大槻さん、あなたにお礼を申さなければならない。私は妻を失って、気力もなにもなくなっておりました。友人たちの慰めもあり、宮中からの弔慰まで頂戴したのですが、どうしても心が開けません。ところが、机の上にあなたが、置いて行かれた「言海」を見て、気のすすまぬまま開いていて、遂に跋文に及び、読むとはなしに読みはじめて、とうとう末まで読ませられました。子供に死なれ、妻を失っての中でなお著述に奮闘しておられる。これで、なければならぬと、屈した心が豁然と開けたのです。不思議なことでした。重しをかけたように沈んでいた心が、すっと晴れました。まことにあなたのおかげです。」
この話は、高田 宏 著「言葉の海」の中にで来る一節である。昭和30年に広辞苑の一版が刊行されて、「言海」に代わって一般に国語辞書として権威を持ち始めた。言葉の定義と言うと「広辞苑」によると、と言う枕ことばがつくのが例になった。そうした風潮の中にあっても「言海」を愛用していると言う文人や学者もいないことはなかった。だが、そうした隠れた「言海」フアンも近年は聞かなくなった。それに広辞苑の他に各社から、カラ−の写真のはいった国語辞書が出版され、極最近の新語も多く採用されたりして、かってのように広辞苑の金城鉄壁を誇るというわけにいかなくなった。
近年は「言海」の古本が古本屋の店頭で、信じられないような安価で、売られていた。辞書の生命は新しいことにある。そのため辞書が上梓された直後から、編者はカ−ド作りを開始して改訂版に備えるのである。
こうみてくると、「言海」の生命は終息しているわけであるが、それが長らく読書子を繋ぎ止めた理由は、大槻文彦の言葉に対するユニ−クな定義と語源の執拗な探索に他ならない。それになんといっても、近代国家が成立するためには、国語辞書が完備されることが不可欠であるという使命感は、いかにも明治の人間の気概が窺えてその後の辞書の編者にはみられない。「言海」はいわば国士のつくった近代日本の国語辞書の嚆矢である。
高田 宏は恐らく「言海」最後の愛用者の世代に属すものと思われる。この一書によって、記憶から薄らぎかけていた大槻文彦の文名が再び世に流布するきっかけになったことは間違いない。その意味からも、労作「言葉の海へ」がノンフィクションの業績に与えられる大仏次郎賞には相応しい。