一時間の見舞いが忘れ得ぬ人になった話

「聖ヨハネ病院にて」で妻の7年に及ぶ看病の生活を書いた上林 暁は、昭和37年に脳出血で倒れた。その後は右手、右足、口が不自由になったが、口述筆記で「白い屋形船」などの名作を発表した。

 以後死去するまで、病床にあって妹の睦子の手を借りながら、旺盛な口述筆記を続けたのであるが、杉並の天沼に病臥している上林 暁を昭和43年、中山義秀が鎌倉の極楽寺から見舞いに訪れた。

 上林と中山はそれまで同人雑誌をやったとか、あるいは特に個人的に親しかった間柄というのではない。この頃中山義秀はすでにガンに冒されていて「芭蕉庵桃青」を完成も危ぶまれていた。

 上林 暁は「なぜ平素行き来をしない私を見舞う気持になったのだろうか。寂しい気持から同病相憐む情がきざしたにちがいない」と義秀の心境を推し量った。

 中山義秀は「お互いに苦労したねえ」と言って上林 暁の手を握りしめた。上林の苦労を察し、中山は自分の苦労を思い出したに違いない。この間一時間。

 中山義秀はこの上林の見舞いの後、一年して昭和44年、69年の波乱の生涯を閉じた。

 上林 暁は中山義秀の回想記の中で次のように述べている。

「もし私を見舞ってくれることがなかったら、恐らく書くことはなかっただろうと思う。もしあったにしても、行きずりのことに終っただろうと思う。彼が死ぬる一年あまり前のころ、せいぜい一時間見舞ってくれたがため、義秀さんを忘れられない人にした」

 上林 暁はその後も病床にあって「ジョンクレアの詩集」「朱色の卵」「ばあやん」を書き続け、10年後の78歳で長い闘病生活にピリオドを打った。享年78歳。