5日間で6千キロ、温度差15度!

 11月24日、札幌へ向った。例年の催しで、札幌のこどもミュ−ジカルが、1月早い「クリスマスパ−テイ−」をやる。という。ことしは春から夏にかけて東京と長崎でミュ−ジカル公演「ニンゲン、コレミナオナジ。ゼノさんとこどもたち」というミュ−ジカルを公演した。暑いさなかでもあり、相当に厳しい公演だったが、こども達の熱演と色々な人々の大変なお力添えで、東京、長崎の3公演は極めて好評であった。

 特に長崎では子供たちの熱演が大人たちの涙をしぼった。その時の沢山の支えてくださった人々にお礼を申し上げる。ということなので、東京でのスケジュ−ルを大急ぎで終らせて札幌へ飛んだのだった。

 空はどんより曇っていたが、気温はあたたかくまアクリスマスの気分はでないが、何となく気持のいい日であった。

 会場の病院のメインル−ムは沢山の人々が集ってなごやかだった。

 座付作者の私も、お集まりの一人一人に心からの感謝の気持を伝えた。

 合唱やら、皆一緒になってのフォ−クダンス風のアトラクなど一応たのしく終った。

 翌朝ホテルに細川さん姉妹がこられて「ことしは昔の作品を練り直し再演したい」といわれる。足を折った私も新作を作り上げる自信がない。では「狐のチャランケ」と「ポロリンタン」と二つの作品を練り上げましょう!ということになった。

 さあ、又新しい気持で、2003年は仕事の年にせねば、、、。などと思う。

 25日、札幌を出る。一週間程前に降ったという雪があちこちに残っていてさすがに北海道は寒い。日中は3度か4度、夜に入ると0度になるという。

 ちょうど1時間15分で、羽田着。一旦うちへ帰る。少々くたびれてぐっすり眠る。

 翌26日、又家を出て羽田へ。

「よくまあ動くなア」と我が事ながら感心する。でもこれで動かなくなったら、一ぺんに老いが迫ってくるのではないか?なアに動いているから元気なのさ!自分にいいきかせて沖縄行きの日航機に乗る。BI747、大きなジャンボ機である。季節としては一番閑散とした時なのか。あちこちに空席がある。3時間飛んで那覇空港着。

 さすがに南国。気温15度。

「今日は寒い!」と土地の人はいう。札幌とは温度差が実に20度近くある。「う−ん、日本は広いなア」といったらそばにいた人が「広いんじゃありませんよ。南北に長い、のですよ」それはその通りだ。

 空港からタクシ−を飛ばして「ハ−バ−ビユ−ホテル」へ行く。

 今から40年前、1962年だった。私は音楽部の副部長だった。のど自慢が初めて沖縄で実施されることになった。

 勿論、米軍統治下である。我々はパスポ−トを用意して羽田を発った。飛行機は勿論日本の飛行機ではない。ノ−スウエスト航空だった。そして泊まったところがこの「ハ−バ−ビュ−ホテル」だったのだ。

 40年目に入ったホテルは、そんなに変っていなかった。「そうだ、ここにはスロットがあった!」私は思い出してホテルの人に訊いた。

「あの頃はカケ金自在のスロットがありましたね!」「よくご存知で、、、」

「ドルで遊んで25ドルもうけましたよ!」

「今はもう日本の法律ですからスロットはありません」「!ザンネン!!」

 あの頃の私はまだ30半ばだった。アナウンサ−は宮田 輝さん。初めて日本域外での公演だった。那覇市内の国際通りの小さい会場だった。

 今はもうあの宮田さんはいない。

 つい半年前までのど自慢の鐘を打っていた吉沢君もこの秋亡くなった。

 ハ−バ−ビュ−ホテルは余り大きな模様変えをしていない。内装など全く昔のままだった。

 今回の私の用は、27日、那覇の近くの浦添に出きる、国立劇場「おきなわ」の建設委員会に出席して座長として皆さんの考えをまとめること。

 いよいよ落成を2年あとにひかえて話も熱を帯びた。私は沖縄の方々が利用しやすく誇りにしたくなる劇場にすればいいと思った。

 時に熱っぽく時に淡々と会議は進んだ。数々の犠牲を払った沖縄の人たちにこれからはもうたっぷりと楽しんでいただきたい!私はそう思った。

 国立劇場「おきなわ」は2004年1月に落成の予定である。

 会議を終えて再びジャンボ機にのって羽田へ向かう。偏西風に乗って30分近く早く到着する。

 北海道−沖縄、約6千キロの旅だった。私は5日間でこれを踏破した。南北の温度差は大体15度、時には20度にもなる。地球は狭くなった。日本も又狭くなった。