年末偶感

「骨を折りました」(1)

 今年もあと少しになったという1026日、旅先の下関で骨折した。私は昭和22年に旧制第七高校を卒業した。その時の同窓生が「北辰会」という名前で、ずっと交友を続けている。

 例の宗教団体に娘を奪われて、断乎として戦い続けて遂に奪い返した飯干晃一君とか高校卒業後、演劇を志し、秋田雨雀の演劇学校に入って初めは二枚目、アッという間に老人役!と見事な転身を遂げた天本英世。敬虔なクリスチャンで、のちに明治学院大学の学長になった福田垂穂。などが同級であった。

 その連中が年一回、集っては飲み、語り、歌い踊る会が「北辰会」である。

 2年前に母校の百年祭が終って「さあどうするか?」ということになった。「もうやめよう」という声もあったが,やはり二人になるまでは続けよう、というのが多くて先細りは明々白々,でも頑張ろう、ということになった。

 2001年は北九州!となったのだ。

 ここで問題提起があった。下関に住むN君である。九州は鹿児島、出水(鹿児島の校舎が全焼して戦後の一時期を我々はここで過ごした)福岡、北九州と会場を変えてやってきたが、オレのいる下関は、いつも素通りだ!というわけである。

「下関はフグだけではないぞ!来てみろ!」というのがNのことばだった。

 で、我々は北九州(小倉)での北辰会の前の日に下関に行ってやろう、と考えた。

 今殆ど現役を退いているから大方は都合をつけることが出きる。現役でいるのは、医者と弁護士だが、この人たちだって人に頼んで何とかやりくりは出きる。

 だが人間、何か事があるもので、結局、前日祭に集れるのは12名になった。

 10月26日、下関に集合。Nは友人の会社社長(これは7高出身ではない)に頼んでマイクロバス一台を都合した。そしてこの社長が同乗して下関遊覧となった。

 いつもは新幹線でガ−ツと過ぎてしまう下関はこうやってゆっくり廻ると、なるほど、色々な姿をもっていた。

 下関港には、今でも釜山までのフエリ−が横づけしていた。新しく出来た下関タワ−の上から眺めると、下関から門司、小倉まで一望することが出きた。巌流島もよく見えた。今でもここではロケが行われるという。

 彦島は、石油備蓄の基地になっていて壮大な現代産業の大パノラマになっていた。