白衣をまとって取材合戦の話
昭和5年(1930年)11月14日に時の総理大臣、浜口雄幸が東京駅のプラットフォ−ムで凶弾に倒れた。すぐさま東大病院に運ばれたが容態がつかめない。そうかと言って手を拱いている訳にはいかないのが、当時の新聞記者である。
晩年はTBSの「時事放談」で茶の間の人気を集めていた細川隆元が、その頃朝日新聞の政治記者をしていた。なんとか他社に先駆けて病状を知りたいと思っても、手術室の周辺は警戒が厳重で近寄れない。
細川記者はそこで一計を案じた。同じ熊本の産で高校、大学と同窓の友人が思い浮かんだ。その友人が東大の医学部でまだ研究をしていた。事情を述べると、その友人の親友が浜口雄幸の手術に立ち会っているとのこと。
その友人曰く。「、、、、、、彼に連絡をとってやろう。それにしても、その服装では第一手術室に近寄れないから、私の白衣を貸すからすぐに着替えたまえ。そうして、すぐ手術室のとこへ行こう。」と言う。そして友人が手術室を出入りする医者達に聞き出し、手術後に執刀医の親友に正確な報告を聞いた。細川記者は鬼の首でも取った積もりで、急いで社に帰って報告したら、デスクが大変喜んだと言う。
その時手術室の前に見たような顔の男が一人やはり白衣を着て立っていたが、どうもこれは医者らしからぬ人間だと思っていたら、同盟通信(共同通信の前身)の記者で父親が東大の有名教授なので、親の威勢を借りて他社に先駆けて取材をしていた。勿論その時はお互いわからなかったが、細川隆元が政治部長の時、この記者が同盟通信から、朝日新聞に移籍してきて「何だ、あの時のは君だったのか。」と新聞記者らしい
名乗り会いをしたという。
張り詰めた手術室の一歩外では珍妙な取材合戦が繰り広げられていたのである。浜口雄幸はこの時は一命を取りとめたが、それがもとで翌年8月に他界した。