哀しくも美しい別れ

 宮原晃一郎と言うと、クヌ−トハムスンの「飢え」を思い起こすが、英、仏、独、独、伊、西からノルウエ−語までをことごとく独学でマスタ−した語学の天才であった。

 昭和20年の初夏、病躯をおして北海道に疎開の途次、青森に近い野辺地付近で汽車に腰掛けたままいつのまにか、死んでいたという。

 中村白葉と宮原晃一郎はN商館時代に知り合った旧友で、宮原にとっては、有島武郎を除くと白葉は文学的に最も古い友人であった。

 宮原晃一郎は北海道から上京して、商社や新聞社などに籍をおきながら、筆一本で老母と妻を抱え、創作に打ち込んでいた。そんな時、中村白葉に会うとよく生活の不如意をかこっていた。

 ある日、宮原が白葉の家に来て「もうどうにもやりきれないから、焼きいも屋をやろうと思う。」と言い出した。その商売道具の素焼きの壷を買うの15円の金がなくて困ったという話である。

 宮原は白葉の苦しい内証も知っていたので、正面切って言い出しかねていた。が用立てれば喜ぶことは知れていたし、多少はそれを期待していたかもしれない。しかし白葉の財布には10円札が一枚あるだけであった。「じゃ僕が、、、、、」と言い出しそうになったが、もし貸してしまえば、困るのは目に見えている。焼きいも屋までやろうという友人の窮状を見て10円の金を貸すことを渋るのは友達甲斐がなくはないかと思いつつも、そのチャンスを逃してしまった。

 その後、年月を経て終戦の年の5月に、交通事情の良くないのに、不自由な病躯をおして、練馬の奥から世田谷の桜新町まで来て、「これでもう君とも会えまい」と泣いて帰った。

「君にだけはもう一度会って行きたいと思ってね」と涙のたまった眼でじっと顔を見られた時には、私も思わず涙ぐみ、「君が発つまでにはぜひ行くから、もう一度はきっと会える」と約束して、電車まで送って別れた。折りから連日の空襲さわぎに一日のばしのばすうち、宮原晃一郎は疎開のため北海道に向かった。そしてその車中でこときれた。

 中村白葉はこの負い目−どう思ってももうとり返しようのない負いめ、これを思い出すと、中村白葉は今でもやりきれない心の痛みを覚えると、その7年後に記している。