原 信夫とシャ−プスアンドフラッツ

 2002年4月7日(日)昼すぎから東京へ出かける。午後4時からの日比谷公会堂で50周年記念コンサ−トにリ−ダ−の原信夫さんからご招待を受けたのである。

 これは出かけねばならない。何としても聴いておこう。そう私をかり立てたのは、あの原さんのシャ−プスアンドフラッツが50年になるのが私のNHKスタ−トと余り変らないと思ったこと。50年にわたって指揮し、テナ−サックスを吹き、元気いっぱいの原信夫さんも、私とたしか同い歳だった筈、とすれば、まだ元気でリ−ダ−をつとめられているのは驚嘆に値する。そして恐らくはこの夜50年来の古い友人たちも来ているだろう。

 これは行かずばなるまい。私はちょっと早目に家を出た。日比谷公会堂は旧NHKのすぐそば、そして、その又すぐそばにJRAの場外馬券売場がある。今日は桜花賞、ことしは「乱桜」との噂だ。ゆきがけに穴馬券を手に入れることにしょう。

 4時、コンサ−ト開始。原さん自身の司会で第一部が始まる。1トランペットブル−ス 2リンゴの木の下で 3梅ヶ枝の手水鉢 4古都

 古いお得意のものを並べて、まずはシャ−プのペ−スにひきこまれる。3、は幕末頃の三味線で唄われた俗謡、山屋 清のアレンジである。

 つづいて、あの「スタ−ダスト」、と原 信夫自身の作曲「ハンプテイダンプテイ」の一曲、高橋達也のサックス、ソロで一時は病気していたという高橋達也もすっかり良くなったようだ。この辺ですっかり気持がよくなった。すかさずノウデイ.ヘ−マンの話を入れて、「アップルハニ−」そしてクインシイジョ−ンズの「グレ−ス」ベニ−コルソンの「ブル−スイ−スト」と続く。いい気分の中で前半終了。

 幕間にロビ−に出ると、やはりいたいた。ジョ−ジ川口がそして秋山 健が、、、、。NHKの後輩の菊池君もいた。

「原さん、元気だねエ」「シャ−プ、なかなかいいねエ。」忽ち皆が若返ってゆく。

 休みのあとは、若手の歌い手、小林 桂が歌い、つづいて近頃めきめき売り出してきた綾戸智絵さんのうた。

 うまいものだ。一気に客席をのせてしまう。歌もなかなかのもの。この人はアメリカで修業したジャズだという。

 小林のうたは「ユ−ワ−メント・フオ−・ミ−」そして「フライ−ミ−ツ−ザム−ン」

 綾戸のは「ラバ−カムバック・ツ−ミ−」「テネシ−ワルツ」そして「サマ−タイム」どの唄もチャンときかせた。うまいものだ。特に綾戸は大阪弁をまぜて、まことに見事な話しかたをする。

 そしてラストは、この楽団のテ−マ曲[A列車で行こう]

 昔からさんざん聞いて聞いて沁み込んだ曲だがやはり、いい。楽員も古い人が多く、ある種の円み、つまり円熟したたのしさがあって、とてもたのしい三時間だった。

 それにしても私と同年とはとても思えない原さんの逞しさ、若々しさ。羨しくもあり、大いに激励したくなった。

 音をききながら、ふと40年近く昔のことを思い出した。当時の原さんはまだ30いくつだったが、24でリ−ダ−になっただけあって、周囲の信頼がとても厚かった。

 毎年、紅白歌合戦の時期になると、私の頭痛は美空ひばりにどうやって、こちらの思っている曲を歌わせるか、だった。

 紅白は一年の終りだから、この一年の最もヒットした歌を、と我々は思うのだが、ひばり側、特にあのお母さんは、新しい年にヒットさせたい曲をうたいたいという。

 こじれてくると、私は、いつも、原さんをひっぱりだした。原さんがいってくれるとさすがのお母さんも、反対は出来なかった。

 原さんにはそのせいもあって私には大変大事な人物だったのだ、勿論その音楽性の高さは十分認めていたけれども、、、

 会が終ってから、新橋駅まで歩いた。思わず気がつくと「A列車で行こう」のメロデ−を口ずさんでいた。

 会の始まる前に買っておいた桜花賞は6−15という大穴で、見事に外れていた!