服部良一

 作曲家として古賀政男の対極にあった人といえばやはり服部良一といわざるを得ないだろう。

 お年を召したお方なら、その昔、「夢去りぬ[Love's gone]」という題の名曲を覚えていらっしゃるだろう。

 「夢いまだ醒めやらぬ、春のひと夜」というそれこそ夢のようなタンゴである。題名にもLove's goneと併記されているし、武骨な戦時歌謡や純日本調のメロデ−に馴れきった当時の人々には極めておしゃれな「外国曲」の味がしたことは間違いない。この曲の作曲家名を見るとReo Hatta「レオ ハッタ−」とある。「やはりなア!」「西洋の曲は一味違うなア!」と感心された方も多いに違いない。

 ちょっと待った。この曲は実は戦時中に世をおもんぱかったレコ−ド会社の配慮で(ご本人がイタズラ心で、という話もある)外国人らしい名前を使ってレコ−ド化したものだった。本当の作者は純粋の日本人、服部良一その人だったのだ。服部のこの曲はそうといわねば分らない外国曲の装いである。しばらくこの優美なタンゴは戦時体制下の日本の特に若い人々に愛好された。

 戦後に刊行されたこの歌のタイトルを見ると奥山  作詞、村雨まさを補作、服部良一作曲となっている。

 「村雨まさを」は戦後、服部が使用した作詞の時のペンネ−ムである。あの有名な「買物ブギ」は村雨まさを作詞の代表曲だ。

 服部さんは大阪の出身である。若い頃三越音楽隊というデパ−トの音楽隊に所属し、管楽器奏者、指揮者、作曲家として活躍した。戦前戦中の曲は「蘇州夜曲」(あの李香蘭の歌唱である)があるがこの頃も、やわらかいメロデ−の特徴は、はっきり出ている。それはどこかバタくさく、どこか廃退的に聞こえたのであろう。戦時中服部良一の名を高くするものはそれほど多くなかった。

 戦後の服部さんは水を得た魚であった。その中でも、笠置シヅ子の歌でヒットしたブギウギの歌のいくつかがまことにめざましい。東京ブギに始まって、買物ブギに重る一連の曲は戦後という時代相と笠置シヅ子ともう一ついえば服部の育った大阪の雰囲気とに色濃く染められて、それらの歌は戦後を代表する名曲となった。

 私は昭和28年(1953)にNHK−TVの開始と共に東京テレビジョン局に所属した。従ってまだ笠置さんは代表的歌手の一人であったが、その全盛時代はすでに過ぎようとしていた。

 「もう五年早くテレビが始まっていたらなア!」と少々シュンの過ぎた笠置さんの歌とおどりを見ながらこのたぐい稀な天才歌手の芸を惜しんだものである。

 笠置さんのブギの真似をしてNHKのど自慢に登場した美空ひばりが、「教育上よろしくない」という当時のNHK上層部の意見でテレビでは放送されなかった。だがステ−ジと映画の両方でその魅力を発揮した美空はあっという間に笠置の城を飛びこえてしまった。

 笠置さんの悲劇はその全盛期にテレビがなかったこと、美空ひばりという余りにも達者な天才にあっという間に追い越されたことだろう。

 吉本の若旦那に早く死に別れ、孤軍奮闘して一代のブギの女王になった笠置シヅ子はやはり悲劇の人であったように思われてならない。既に斜陽の人になりかけていた笠置さんは当時のフロアデレクタ−であった私のような若僧をつかまえてもひどく丁寧であったのが悲しく思い出されてならない。

 服部良一さんはそのあとも、次々とヒット曲を作っておられる。「銀座カンカン娘」、「青い山脈」、「丘は花ざかり」しかしそれは大体30年代の終ごろまででそのあとは余り多くない。

 後年、私が「服部さんの今一番やりたいことはなんでしょう、とおたずねした時のご返事が、その頃の服部さんを象徴しているように思われる。

「いま、いちばんやりたいことネ、そうだね、シンフォニック、オ−ケストラで、壮大な曲が作りたいね、宇宙を圧するようなネ」

 この時は、私には服部さんの心情は分らなかった。私には「雨のブル−ス」「別れのブル−ス」で衝撃のデビュ−され次から次と新しい形の曲を生み出してこられた服部さんはまだ新しい形の歌を生み出されるはず、と思われていたからだ。

 あとでジョン、ウイリアムズの曲中でも宇宙映画のいくつかで大シンフォニ−オ−ケストラを使って壮大な響きを聞いた時、「そうか服部さんもこんな曲を生みたかったんだ!」とはじめて納得した。