平山郁夫

 平山さんは鎌倉に住んでいらっしゃる。閑静ないかにも「鎌倉」という感じのお宅である。けっして豪邸などという感じのしない、静かなたたずまいである。藤沢に越してからお宅をお訪ねしたことがある。

 驚いたのは、この家のそこかしこに世界中の工芸品が置いてあることである。

 おききしてみると、それは何十年にもわたって訪れた各地のバザ−ルや個人から求めたものだそうだが、やはり平山さんほどの巨匠の選ばれた逸物ばかり、「う−ん」と思わず唸ってしまう。

 圧倒的に中近東、アフリカが多いが、勿論東南アジア、中国、韓国のものも、さりげなく置かれていて、思わず息をのむ。

 平山さんはこれらの作品をご自分の家の中にまるで、ささやかな美術館にしまっているようだ。

 勿論、平山さんの集められたものは、もっともっと数多い。お生まれになった瀬戸内海の小島に、平山郁夫美術館が作られ、ご自分の描かれた絵画の数々と並んで陳列されいた。

 私がそこでびっくりしたものがある。

 小学生の頃に描かれたという小品の数々である。恐らくはそんなに豊かでない道具を使って描かれたのであろうが、瀬戸内の小島の昭和十年代の雰囲気が、その小品の中にも生き生きと描かれていた。

 「天才はやはり天才だ!」と私は少年、平山郁夫の大変な才能に腰を抜かさんばかりだった。

 東京美術大学(今の芸大)に入られた時同級生に現在の奥さんがおられたという。でも奥さんは、平山さんの大変な才能に驚嘆されて、「私はあなたのアシスタントになる!」と宣言して、さっさとご自分の画家希望をやめて、平山さんの助手に専念したという。奥さんはやさしい笑顔で「やはり、平山の才能は普通じゃありませんでしたから、私はこの人の仕事のために働くのが一番いい、と思ったのよ」とおっしゃる。それはまことに見事な夫婦像であった。

 平山さんで驚くのはもう一つ、あのおびただしい作品を描き、自らの脚で辺地まで旅をしながら、それと平行して、東京美術大学の学長という大激職も兼務されたことである。

 しかもその他にアンコ−ルワットの修復や世界遺産の保全のための諸事業をすべて先頭にたってやられたことだ。

 平山さんはそれを淡々としてやられてしかもちっともいばらない。「いや−」とはにかんでおられるぐらいである。

 やはり平山さんは天才である。

 平山さんと私のそもそもは、昭和五十二年のNHK番組「シルクロ−ド」に始まる。

 戦後、何とかテレビでシルクロ−ドを!という声は全世界に起った。幸いにNHKが選ばれて番組化することが出来た。

 私は当時(昭和五十二年頃、番組制作局長だった。私の仕事は三つあった。中国と、条件面の交渉をすること、人員機材を整えて制作スタッフを派遣すること(勿論、日中共同制作の形で)もう一つが日本人の中のすぐれた方々に全面協力していただくことである。

 井上 靖さん、陳 舜臣さん、そしてもう一人お願いしたのが平山郁夫さんだった。

 お三方はほんとうによくやって下さった。その他の考古学界の諸先生の大援助を得てシルクロ−ドは、戦後の文化的な仕事の中でたぐい稀な成功を修めたのである。

 驚いたのは平山さんのお仕事だった。テレビの仕事のお力添えは大変なものだったが、そのあいまを縫って何千枚という西域地方のスケッチが残った。それは後に展覧会となり、画集としても残ったのだが、あの作品の数々にはただただ驚く他はない。

 鎌倉のお宅を訪ねた時、ちょうど鑑真和上の里帰り云々があって平山さんは唐招大寺の壁画を書いておられた。「見ますか?」とおっしゃるので、「モチロン!見たいです。」ご自宅から100メ−トルぐらい離れて画室があった。

 驚いたことに壁画のあの大きさのものを描くには大変な仕掛が必要なのだ。まるで建築現場のようなパイプが組まれ、上から下から先生は筆をふるわれる。

 画を描くという仕事の凄さをこれほど仰天して驚いたことはない。「すごいですね!」と私。「いえ別に、、、、、、」と平山さん。

これにはもう「恐れ入りました!」と頭を下げるのみだった。