「鶴は病みき」の平野屋旅館        

 岡本かの子が、芥川龍之介の愛惜の心が催されて困ると言って「鶴は病みき」を発表したのは、芥川が自害して8年経った昭和11年6月号「文学界」のことである。この作品の中で芥川竜之介は麻川荘之介として、また作者の岡本かの子は葉子として描かれている。

 芥川が昭和2年7月24日に不慮の死を遂げる5年前の一夏、岡本かの子姉妹と偶々同じ旅館に同宿したのが、鎌倉雪の下のホテルH屋、すなわち平野屋旅館である。

 平野屋の本店は京都で、鎌倉に別荘の様な料亭を建てたが商売の不振で母屋を交ぜた三棟四棟を避暑客に貸し、京都風の手軽料理で、若主人夫婦が賄いをしていた。

 どの棟の部屋もみな一側面は同じ芝生の広庭に面し、一側面はすべて廊下で連絡していた。その中の一棟に文士の麻川がいることをH屋の主人から明かされる。

 葉子は以前に麻川に小説を見て貰う積もりで、手紙を出したが、ナシの礫であった。それは漫画家の坂本(岡本一平)が、雑誌記者で新進作家からの材料を基に麻川を戯画化したのを、材料の出所が葉子と誤解したのが原因ではないかと、葉子は邪推する。

 葉子の夫、坂本が東京から来た時に、麻川が挨拶に来る。その時の様子を一芸に達した男同志−それにいくらか気持のふくみもあるような−初対面を名優の舞台の顔合わせを見るように黙って見てい

たと書いている。

ある時麻川は「僕、昨夜,ひまわりの夢を見ました。明け方までずっとみ続けましたよ」と言った。その時の麻川の目は血走っていた。

 このH屋旅館には大川宗三郎(谷崎潤一郎)の義妹である女優や小穴隆一が別名で登場するが、当時の読者には分かる。そしてこの女優達がやってくると、麻川の執筆のために借りていた部屋はそれまでと一変して騒々しくなる。最後にはこの女優は、麻川の部屋を自分の部屋のように占領し、葉子らの反感を買う。

 作者と麻川は外観的にはことなるが、趣味や繊細な神経の持ち主である点で共通性があることから、親近感を持ちしんみり語る機会が次第に増えていく。それと同時に麻川の幼児性、意地悪さ、病的,盲者的、時として許し難い無礼の徒とも言い切れない一面に遭遇する。

 或る時麻川は「炎天の地下層にですな、小人がうじゃうじゃ湧こうとしているんじゃないですかな」と言って足下の大粒の無数の黒蟻を殺していた。その時の麻川は汗が長髪をねばりつかせ、けらけら笑って立っていて、正に白昼の鬼気迫る感じであった。

 或る時は麻川は皮肉っぽく自分の崇拝者の月旦評をしたり、葉子のところに来る来客の詮索をしたりする。美人観に対して執拗なまでにこだわりを示す。

 大勢の崇拝者に囲まれている時の麻川は、大人君主のように泰然と構えていているが、一人になった時の素顔をかの子は見てしまう。「不用意の氏」の麻川の孤独な姿である。帯の端を垂らしてだらしなく廊下を歩いて便所に行く後姿、誰もいない洗面所の鏡の前で舌をだしたり、にやにや笑ったり、「べっかっこ」をしたり、盥の金魚をたった一人で眺めたり、黙って壁に向かって膝を抱いていたり、夜陰窓下の庭におりて上半身裸身で体操したり、創作している時の相貌が、普段のそれとは想像つかないグロテスクな表情に変貌したりする。

 葉子は随分腹立たしい不愉快な思いをしながら、いつのまにか好感を持ち返すのはふとした折りに、麻川の無邪気で懐かしく、人間的な憂愁や寂寞のニュアンスを分泌しているからかも知れないとしている。

蒸し暑い風が海の方から吹いてきた夜、麻川とかの子は人生観を語る。麻川は「要するにこんないいかげんな世の中に、儚い生死の約束なんかに支配されて、人間なんかくだらないみじめな生物なんだ。物質の分配がどうだの、理想がどうだの、何イズムだのと陰に陽にお祭り騒ぎしているけれど、人間なんて、本当のところは桶の底のウジのようにうごめき暮らしている惨めな生物に過ぎないんですな」

 するとかの子は「そうですね。でも、そういう風に思い詰めるどんずまりに、また反発心も起って、お祭り騒ぎや、主義や理想も立てたくなるんじゃないですか。どっちも人間の本当のところじゃありませんか」

 麻川は縁台に仰向けになって、夜空を眺めている。あたりの草むらに集く虫の音を聞きながら。麻川の端正な顔が星明かりでデスマスクのように寂然と見える。ひょとしたら、尖った鼻先から麻川の体が見る見る白骨に化していくのではないかと思われて慄然とする。「羅生門」の凄惨や「地獄変」の怪美「奉教人の死」の幻想が過ぎり麻川の作品への追憶から崇拝の心が湧いて来て、いつもなら気恥ずかしい「とにかくお体を大切になせいまし」と言う労りの言葉が、葉子の口をついて出た。

 東京からの早朝帰りの麻川は散歩中の葉子に遭遇して、昨夜遅く上京したが、自宅に帰らずXステ−ションホテルに宿泊して帰って来てしまったと言う。

 その時麻川は「結婚なんて、悪遺伝の継続機関だと思っている。仮にですな。僕が祖父母あるいは父母の悪遺伝を継続している者とする、、、、、言うまでもなくそれは僕の子に孫に、あるいはその孫に、、、」「こんなこと考えながら出来るだけ妻に対して良い夫、子にも良い父であろうとしています。でもそういう責任やきはんを感ずれば感ずる程また一方に家庭への反逆心も起ろうというものです、、、」

 葉子は大正12年の8月下旬以来、昭和2年の春までの足掛け5年麻川に逢わなかった。かの子は病後の気持で熱海の梅林が見たくなり、新橋で車中の人になると、前の席に噂に聞いてはいたが、言語に絶する変わり果てた麻川がいた。葉子夫婦と麻川は久闊を叙した。途中で離別する際再会を約した。

 熱海の梅林にある鶴の金網にいる、前年は雌雄並んで豪華な姿を見せていたのが今は一羽だけが寂しげに前面の山を眺めていた。この儚げな鶴を見て、途中で別れた麻川のことが思い出される。「この鶴も、病んではかない運命の岸を辿るか」こんな感傷に引き入れられて悄然とする。

 昭和2年7月24日の暑い日に麻川は自ら命を絶った。世間はその理由を揣摩臆測した。病苦、家庭苦、芸術苦、恋愛苦等に加えて「漠然とした不安」と言うのが、大方の見方であった。

 葉子は世間が時が経つにつれて、麻川の関心が希薄になって行ったが、最後に逢った早春の白梅の咲く頃ともなると、、、、そしてまた7、8月の鎌倉を想い追懐の念が増すばかりである。

 今となっては熱海に行く途次車中で遭遇したのが、生前の麻川との永劫の別れになった。その時交わした再会の約束が果たされなかったことが、かの子の後悔として残った。

 鎌倉で同じ屋根の下で、隣り合わせの部屋で一夏を過ごした頃の葉子の性格とは違って、寛闊に健康になった心象の幾分かを麻川に投じたら、麻川の生死の時期や方向に何らかの異動や変化が無かったかも期し難いと死後8、9年経っても悔い惜しみ嘆く。

 この二人の作家が偶然逗留した平野屋旅館は、大正12年9月1日の関東大震災で焼失した。震災に会う直前の一夏の体験が無ければ、かの子の「鶴は病みき」は書かれなかったであろう。岡本かの子はこの作品を発表してから、3年後の昭和14年2月に忽然と世を去った。49才であった。

 かって平野屋旅館のあった場所は、鎌倉の裏駅の水道局のある辺りである。