涙と笑いを誘う追悼文
松川裁判の無罪判決に心血を注いだ広津和郎が死去したのは、昭和43年9月21日である。
広津和郎の葬儀で谷崎精二はおよそ次のような弔辞を述べた。
「広津君、、、、明治年末以来、早稲田大学予科の同級生として互いに知り合ってから茲に六十年、君と僕とは文学を志してほぼ同じ途を歩んできた。僕は君の最も古き、最も親しき友人の一人であったと信じる。
「世は去り、世は来たり、地はとこしえに保つ」人生限り、いつかは君と別れなければならない時が来るとは覚悟していたが、僕は君と別れたくなかった。君と共に生き、君と共に働きたかった。今君の訃に接して感慨無量である。、、、、
君と時代を共にし、君を知り、君を敬愛したことを我等は大なる誇りとする。さらば広津和郎君、すなわち万こくの涙を呑んで君と別れる」
こう読み上げた谷崎精二は控え室に戻って泣いた。
谷崎精二はその年の11月の「早稲田学報」には広津柳郎と和郎のエピソ−ドを紹介して在りし日を偲んでいた。
「広津の父君柳浪さんは尾崎紅葉と並び称された明治の文壇の大家であったけれども、、、、自ら筆を絶ってしまったので、生活に困っておられた。若いころ私はしばしばお眼にかかったけれども、古武士風の一徹な人であった、、、、。
広津は少年時代に生みの母に死別れ、継母の許で育った。柳浪さんは後妻と必ずしも円満ではなく、死んだ先妻を忘れかねていたし、息子を溺愛してもいた。
学生時代のある日、広津は父君に呼ばれ、「うちではお母さんなんかいらないな。お前と二人でお母さんを置いて関西へ逃げよう」とまじめな相談を受けて、ひどく困ったという。
その谷崎精二も広津和郎に遅れること3年昭和46年12月14日にこの世をさった。