星野哲郎
私の仕事がら、作詞作曲家の方々とは随分沢山のお近づきをいただいた。古いところでは西条八十八さん、古賀政男さん、戦後のヒット曲作者でも、佐伯孝夫さん、吉田 正さん、仁木他喜雄さん、上原げんとさん、服部良一さん、その数はとても十本の指では数えきれない。
ただこれらの名作詞、作曲者の皆さんは、大方鬼籍に入られた。
元気で今も第一線で書いていらっしゃる方々を思いつくままにあげてみよう。まずは作詞家協会の会長をやっていらっしゃる星野哲郎さん。この方は、私の一つ歳上でいらっしゃるし、たいへんきさくにおつき合いいただいている方だが、何をやっても私よりお上手で頭が上がらない。
瀬戸内海に浮かぶ山口県の島育ち。高等商船学校を出て船乗りを志したが胸の病で方向転換。作詞家として音楽の海へのり出された。
星野さんの作った一番有名なのは水前寺清子の歌だろう。艶歌、演歌というけれど演歌は人生の応援歌、という星野さんは次々にチ−タ−の歌を作られた。
中に「押してもだめなら、ひいてみな」という歌がある。夜の酒場でしたたかにきこしめした星野さんがさあ次へ行こう、とドアをいくら押しても開かない。うしろからバアのママさんが、「押してダメならひいてみな!」という。そこで生れた歌が「押してダメならひいてみな!」だという。
恐らくは星野さんのテレかくしのエピソ−ドだろうが星野さんの人生演歌は教訓にも富んでいて、なかなか面白い。
「ボロを着てても心は錦」とか「人生ワンツ−パンチ」とか「ベソかき汗かき歩こうよ」とかつい口ずさみたくなる。
都はるみも又、星野演歌でよみがえった一人である。「普通のおばさんになりたい」といって一旦スタ−の座を下りたが星野さんの「夫婦坂(みょうとざか)」を歌っているうちにやはり元の坂を上り始めていた。
彼女が一時歌の活動を休止してそれこそ「普通のオバサン」になった頃、一緒にゴルフをやったことがある。人前ではキャ−キャ−騒いでいたが私たちだけになると、何か淋しげだった。
「あ、これは又復活するな!」と私はひそかに思ったのだが、まもなく彼女は再び歌い出した。決して声高ではないが、しっとりとやさしく励ましてくれる星野哲郎さんの歌のせいではなかったか、と私は思っている。
星野さんは、最愛の奥さんに先立たれている。(このことでは私の方が少々先輩だった)この頃ではお互いに会った時は一切、死んだ妻の話はしないことにしているのだがそれでも、お会いするたびに、お互いの目の奥にそのことを秘めているのをじっと隠しているのが分るのだ。
星野さんは近頃又お元気になられた。「又ゴルフが飛ぶようになったんですよ」そんなことをお話しになる星野さんは益々澄み切った瞳をなさる。
「いいですね。私の分まで飛ばして下さいよ」と私は答える。お互いに、もう若くない。共に妻には先立たれた。でも、生きている限り私たちは瑞々しい生き方をしなければならないのだ。
ボロは着てても心は錦
どんな花よりきれいだぜ
星野ブシにもちゃんと歌ってあるではないか。