市丸

 むかし芸者歌手という名でよばれた女性歌手が何人かいた。本物の芸者から転じて、本職の歌い手になった人もあれば形だけの芸者姿をした日本調歌手もあった。本物の芸者から転じて歌手となった人の代表は藤本二三吉、小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅などであり、後者には神楽坂はん子、神楽坂浮子などがいる。現在は芸者歌手は勿論のこと芸者という存在そのものが甚だ影が薄くなった。

 芸者という仕事に少々人権的なウサンクササを感ずる現代ではやむを得ないところであろう。

 私がテレビの仕事に入った昭和25年頃はまだ芸者さんの数も多く芸者歌手という存在も少からずいた。中でも大きな存在は市丸、勝太郎、小梅であった。

 この三人はキャラクタ−も違えば、その得意とする歌にも又きわだった個性があった。

「島の娘」の勝太郎、「天龍下れば」の市丸、「黒田節」の小梅、といえばその特徴がくっきり出てくるであろう。

 この三人の中で私は特に市丸さんに心ひかれた。市丸さんは私の母と同じ年の生まれだったこともあり何かといえば、すぐ声をかけられた。「チョット、これでいい?」ときかれたり「今レンズはアップじゃないでしょうね。アップはいやですよ」「今日はうまく行った?あなた見ててどうだった?」

 などなど、時には堅物のNHKマンにはドギマギさせられるような声がかかってきた。

 市丸さんのような歌い手は当時でもやはり数は少なかった。私はその存在に稀少価値を覚えていたので少々当惑しながらも一生懸命色んなことを聞いてあげた。

「天龍下れば」「龍峡小唄」「東京音頭」のようないわゆる新民謡がよかったが、小唄、端唄もよかったし、新しいところでは服部良一さんの曲「三味線ブギ」などまことに絶妙であった。

 お宅は柳橋の隅田川岸にあったので「花火見にいらっしゃいよ」と誘われた。ハイ、といいたいところだが、何しろこちらは新米のしかもNHKのプロデユ−サ−である。

「ええ、そのうち、、、、」といって言葉をにごしているうちに両国の花火は中止になった。

 復活してからはもはや一度も声がかからなかった。

「川口さんは花火キライらしい」とでも思われたのか、惜しいことをした。

 同じ頃の小唄勝太郎さんとも何度かお仕事をした。こちらは市丸さんと違って、いともあっさりしたお方で特段のごめんどうを見たことがない。

 もっとも勝太郎さんはお医者さんと結婚されていたから、それだけさっぱりしていたのだろう。

 勝太郎さんで珍らしかったのは中央競馬に馬をもっておられて、私との話も「こんどウチの0000チャンが出るのよ。買ってちょうだいよ」といった愛馬に関する話が多かったせいかもしれない。

 勝太郎さんは早くなくなられたが、市丸さんは長寿を全うされた。平成九年に九十一歳でなくなられた。時々小唄の会などにご招待をうけて出席したが八十をこえて尚、昔日のお色気は失なわれず、「どう?この新しい曲いいでしょう!」といわれると「ハイ、すばらしいです!」と答えざるを得なかった。

 市丸さんは晩年は江戸小唄、中村流を継がれて小唄一筋に沢山のお弟子さんを育てられた。市丸さんのおあとは江戸小唄市之輔という名で中村流は若い市之輔さんが継いでいる。

「古典は古いだけを守っていると途絶えてしまう。何か現代の人にアッピ−ルする形をとらねば、、、」ということで、江戸小唄四人衆という人たちをこしらえたり、そのCDの発売記念に都内の東南アジア風レストランの舞台でお披露目をしたり意欲満々である。このお弟子さん方と市丸さんのことをお話すると次から次と生前の逸話のあれこれが出てきて楽しい。

 市丸さんが愛しておられた江戸小唄の数々がこうやって次の世代へうけつがれるのは本当にすばらしいと思う。