未来を目指し、完全主義に生きた文人学者=神西 清

 今年はチェホフの「三人姉妹」がモスクワ芸術座で初演されて100年にあたり、今秋から来年にかけて都内の数箇所でチエホフの戯曲が上演されるが、今でも神西 清の翻訳によるチェホフの「三人姉妹」「桜の園」「小犬をつれた貴婦人」「ワ−ニヤ伯父さん」などいくつかの作品やゴ−リキの「どん底」は、昭和30年代に発刊されたに関わらず、半世紀を経てもそのままで再版されている。二葉亭四迷が明治21年に翻訳したツルゲ−ネフの「あいびき」が、今も文庫本で刊行されているように、それだけ原文の雰囲気を生かした名訳であり、余人をもって代え難いということの証左とみてよい。

 神西 清は、早くから翻訳家として世に知られたが、才能のおもむくままに小説を書かず昭和32年3月11日鎌倉二階堂の自宅でにこの世を去った。死因は舌癌であった。

 首に包帯を巻き付けながらも、病躯をおして死の数ヶ月前まで生涯の友である堀 辰雄の全集の編纂を取り仕切って、鎌倉と軽井沢の堀邸を往復した。周囲の人々は、「すぐに元気になるから」と言う神西 清の言葉を信じていただけに、あまりの突然の死に呆然となった。

 長い結核による闘病生活の後に亡くなった堀 辰雄に遅れること5年、あまりにも完全主義を貫き通したので、理想的な作品でなければ発表出来ないという信条と自己に厳しかったことが、容易に執筆に取り掛かれなかった一因であった。

 神西 清は、旧制一高の時、堀 辰雄と知り合い生涯の友として強い絆に結ばれた。お互いに父親との縁が薄いという境遇が似ていたこともあるが、それは宿命とさえ言われるものであった。両者に交された書簡数は700通余りに及び、どんな知人のそれを凌駕する30数年に及ぶものである。これだけ長期間に亙ってかくも多くの手紙が交換されていたことは、異数といってよかろう。

 もっとも神西 清の長女でピアニストの神西敦子さんによると、神西 清の手紙書きは、仕事が捗らない時の楽しみであり、息抜きであったという。

 当時は電話が今ほど普及していなかったから、いまならさしずめ電話で済むような内容も多くあるのは、当時の文人達の書簡集に共通に見られる現象である。

 チェホフも又よく手紙を書いた作家であった。その38年の生涯に7000通余り書き残している。漱石はあの時代もっとも筆マメな文人であった。それでも50年の生涯に2000通余りであるから、チエホフは如何に多くの手紙を残したが分る。神西 清はその一部を翻訳している。

 清は明治36年11月15日に父由太郎と母止(しずか)との間に生まれた長男。明治43年に東京麹町番町小学校に入学する。父は内務省の官吏であったので、国内各地を転々とした後、最後には台湾に赴任、清も台湾の日本人小学校に転校する。

父親はマラリヤに羅病し、帰国後別府の病院で明治45年に急死した。

 この一年半の台湾の体験は「少年」(昭和26年、12月号の文学界)に詳しく描かれている。

 小学生時代は内向的で、友人も少なく自分の殻にどじこもって生きてきた。日本帝国の植民地であった台湾の小学校では、体操の時間の「旗とり合戦」には級友の皆に同調して加わることが出来ずに孤独を感じた。そして級友が幸福極まる異人種に見えたと記しているように早熟の少年であった。

 父親の死後、清の学費を保障するため、成績次第で大学へもいかせるという条件で母親は再婚に踏み切った。その再婚の相手は裸一貫からある電球会社の重役になった人物で、先妻の残していった7人の子持ちであった。

 母親は次のように言って、その真意を清に説いた。清に父親が臨終に「偉くなれよ」と言ったことを覚えているかと聞きただす。そして「お前はお金のことなんかと、二言目にはお言いだけれど、、、、、、私の身はどうなってもいいのです。今さら楽な暮しをしょうとなどとは母さんは思うのではありません。ただあなたに立派な学校を卒業してもらうことが、お墓の中のお父さんに対する私の務めです」とも言った。

 母親はいつのまにか泣いていた。清は反抗した、興奮した、淋しかったという。6年生の昼休みに帰宅した時のことである。

 清は中学の四年間、母方の伯母にあたる北村のぶ方に預けられる。

ここに従兄弟で後年の劇作家、小説家の北村寿夫がいて、その蔵書から文芸書を読むようになった。

 神西 清は大正5年、東京府立第4中(現在の戸山高校)に入学し、その時竹山道雄と知る。荷風の「あめりか物語」やシェンキエヴイチの「クオヴアデイス」を読み、文学趣味を培い、萩原朔太郎の「月に吠える」により詩に世界に興味を持っようになった。後に堀 辰雄が朔太郎に関心を寄せるに至ったのは神西 清の感化によるものである。

 大正9年、18歳第一高等学校に入学し寮生活を始める。最初建築家志望であったが、数学、物理に馴染めず、宿願を断念しフランス象徴詩に耽溺するようになった。そのため独学でフランス語を学それと平行して詩作にも励むようになった。

 神西 清は、ここで初めて、それまでの複雑な家庭のしがらみから解放されて、精神的な自由を満喫する。

 これより先旧制一高受験のために、母の再婚先の家庭に同居する。ここでの義理の父親や義理の兄弟姉妹との生活は、清に精神的に大きな試練を与えた。特に次男の陰湿な嫌がらせは、感受性の強い青春期の清にとっては、言語に絶する屈辱感をあじ合わされることになった。

 この少年は、知能的に遅れていて、猜疑心が強く、感情の振幅が激しい変質児であってそれでいて相手の欠点を衝くのは天才的であった。家庭内に敵手を持たなくては生活できないという異常な性格故に、父親以外はみなその標的になり泣かされた。

 清が旧制一高で建築科志望であったが、理数系の学科が不得意なので、進学出来ずに中退を余儀なくされて、外語に入学するに至った時、この少年の嘲笑の的になり、遂に二人は修羅場を迎える。このことは、母親の自尊心を傷つけ、転校して2年目の発病の原因になったとして、清は心から懺悔するのである。

 これ以後、清は実生活において絶対の沈黙と絶対の無表情の仮面をつけるようになる。

 その後母親が脳溢血で倒れると、これまで母親を悩ましていたこの少年は、心が変ったように、母に付き添って心配する。清は初めてこれまで見えなかったこの少年の心の奥底を知った。

 昭和元年竹山道雄、堀 辰雄、吉村鉄太郎らと同人誌「箒」を出版。戯曲「負けた人」を執筆。昭和2年に「箒」は「山繭」と合併して詩「砂丘にて」小説「鎌倉の女」を発表。

 母親は、この頃から心境の変化の兆しが見え初めてきた。母親は一時は清と離れて生活することを望まなかったが、清が外語を卒業して遠隔の地に就職することに反対はしなかった。昭和3年北海道大学図書館に嘱託として一年間勤務する

 翌年に東京電気日報社、ソ連通商部に勤める。

 昭和6年3月田辺百合と見合い結婚して、東京渋谷区永住町に居住する。5月に母止(しずか)が脳溢血で死亡。次いで7月には義父の木原みち胤が逝く。この間の経緯は義弟との葛藤とともに「母たち」(昭和11年文学界)に詳細に語られている。この作品を執筆中、神西 清はてい涙すること屡であったという。

 昭和6年6月にソ連通商部を退職して、文筆生活に入る。プル−スト、ツルゲネ−フ、ジイド、ゴ−リキ、チェホフなどの翻訳、評論を発表。

 昭和9年9月に鎌倉二階堂83に転居する。昭和11年に長女敦子、13年に紘子が誕生。昭和13年ガルシン等の翻訳で、池谷賞を受賞。昭和15年には、妻の百合が二児を抱えて、肺炎、肋膜を患い、翌年半ばまで病床にあった。再びソ連通商部に勤務した後、再び東亜研究所に籍をおく。この間満州華北に赴く。昭和20年の大空襲により東亜研究所が焼失し解散。終戦とともに鎌倉に帰ってくる。

 終戦直後は鎌倉光明寺の本堂に創設した「鎌倉アカデミ−」の講師を勤めたり、佐藤正彰らと地方の講演旅行に出かけたりした。

 昭和23年頃から神経痛に悩まされる。この時期30日間に143通の手紙を書いた。昭和25年8月堀 辰雄の病状が悪化したため、軽井沢追分に駆けつける。

 岸田国士を中心とする小説、美術、評論と演劇との交流である劇団「雲の会」に参加する。

 昭和27年チェ−ホフの「ワ−ニヤ伯父さん」の翻訳で文部大臣賞を受賞。

 昭和28年、堀 辰雄が死去。堀 辰雄全集刊行委員になる。この年、折口信夫死す。

 昭和29年、文学座による神西 清訳「どん底」の舞台稽古中に、岸田国士が脳溢血が再発し、隣に着席していた神西 清の膝に崩れ落ちた。直ちに東大病院に運ばれたが、翌日亡くなった。6月に中村光夫と共に新潮社より昭和名作選の共同編集にあたる。この頃は最も多忙で、出版社の要請で伊豆方面にあって執筆。

昭和30年、口内に屡異常を訴える。12月舌癌と診断される。大塚癌研究所付属病院に入院。ラジウム装刺さる。頚部リンパ腺を切開す。

 昭和31年1月に退院し、放射線の治療を受ける。一時は元気になった。毒舌ばかり吐いていたから、舌癌になったなどと言って周囲の者を笑わせたのもこの時期である。だが完治せず、8月頃から衰弱が激しくなった。11月より完全に流動食になる。

 昭和32年、1月中旬「文芸春秋」3月掲載の「同級生交歓」のグラビヤ撮影のため上京、旧制四中時代の同級生に会う。これ以後歩行困難になり、声も細く、言語の明晰を欠くようになった。3月11日不帰の人となった。遺骨は鎌倉東慶寺に埋葬されている。

 福永武彦によると、神西 清は後輩に対する親切な指導者であったという。

 遠藤周作は、慶応の学生時代に、角川書店でアルバイトしていた友人から、「だれか原稿を書いてみないか。神西 清先生が新人を見つけたいとおっしゃっている」というのを聞いて、「神々と神と」という一文を神西 清に提出した。それが角川書店から発行していた堀 辰雄や神西 清の編集の「四季」に掲載された。

 遠藤周作は、雑誌が店頭に並ぶとあちこちの書店を歩き回り、その都度「四季」を手にとり自分の文章を読んだ。遠藤周作にとって最初に自分の原稿が活字になったのであるから、欣喜雀躍。谷崎潤一郎が「刺青」で永井荷風から激賞された時と同じような感激を受けた。その後「堀 辰雄論覚書」を雑誌「高原」に推薦してもらう。

 遠藤周作は、有島暁子を介して鎌倉稲村ガ崎の有島生馬邸(通称松の屋敷)で初めて神西 清に会う。二階堂の神西邸に招かれたりして、卒業後の就職の世話までされるが、周作のフランス留学のために取りやめになった。そんなことから周作は神西 清を終生徳とした。

 神西 清は自己に厳しく、他人にも厳しい面があった。自己の芸術が完全に熟さない限り、筆をとらない。一般には作家は未熟なものを創りながら、完全なものに接近していくのであるが、そう言った手法をとらなかった。また英仏露の外国語に堪能だっただけに、先に翻訳家の名声を得てしまったために、本来書きたかった創作の時間がなく、発表には時間切れになってしまった。これからと言う時に病魔に倒れたことは、惜しみて余りある。

 神西 清は戯曲、小説、評論、翻訳と守備範囲は広い。現代、近代の作家に対する精緻で良心的評論には定評がある。性格的には狷介固陋なところがあるが、戦後、中村光夫、福田恒存、吉田健一、三島由紀夫、吉川逸治らと「鉢ノ木会」を作って、月一回各人持ち回りで、飲みながら芸術一般について意見を交換しあった。神西 清は若い頃は、下戸であったが晩年は酒をたしなむようになり、酒が入ると一転陽気になって酒席を賑わした。この頃が神西 清にとって、仕事の面でも人間関係でも華やかなで充実していた時期といってよいであろう。

 神西 清にとって最大の関心事は仕事だあった。父親清は恐い存在であり、子供が甘える雰囲気ではなかった。妻子を連れて、家族旅行もしたことはなかった。それゆえ普通の家庭の子供たちが経験する家庭的暖かさとは無縁であった。

 それでもこんな微笑ましい時があった。文学座公演のためにゴ−リキ−の「どん底」を訳していた時である。あの有名な劇中歌、「昼でも夜でも、暗いよ牢獄」の訳につき合わされた娘の敦子さんはピアノを弾かされる。訳して一緒に唄ってみる。だが、どうしても清は牢屋の「屋」と上がる音程がどうしても掴めない。「違うってば!この音!」とキ−を叩いても駄目。あまりの調子はずれに、しまいに二人で吹きだしてしまったこともあったと言う。

 最晩年、神西 清は元気になったら、家族旅行しようといった。その言葉を聞いた長女の敦子さんはその言葉のやさしさ故に、もう絶対逃れられないあるものが、父親の後に見え隠れするのを、感じない訳にはいかなかったという。享年53歳。

 現在、神西 清の未亡人百合子さんは、鎌倉山に在住。90を越えても健在。長女のピアニスト敦子さんは日本を代表するピアニストとして活躍されている。