鎌倉の踏査、発掘に情熱を注いだ亀田輝時
「鎌倉の地はあらゆる意味に於て、尚発掘の余地が多かろうと存じます。そしてその方策の樹立は、鎌倉の歴史と鎌倉の現状との研究に俟たなければなりません。
本誌は夫等の研究と紹介を兼ね、傍ら鎌倉という地によって連結されている総ての人々のために、愉快な社交機関の一つとなることを其の使命としているのであります。」
これは昭和10年(1935)年亀田輝時が、扇ガ谷で雑誌「鎌倉」を創刊した時の発刊の辞である。亀田が主宰していた「鎌倉」は断絶しながらも1940年に戦時の紙の統制で廃刊を余儀なくされるまで続いた。鎌倉の研究を発表する民間の機関誌として、昭和10年に発刊したのは、雑誌の性格上から採算は度外視したものであろう。
亀田輝時は、鎌倉に住むようになって、独学で鎌倉史の研究に打ち込み、市内各地の発掘調査をし、数々の業績を上げた。鎌倉文化研究会(鎌倉扇ヶ谷243)を発足させ、その機関紙が「鎌倉」である。また鎌倉の経済学的研究に興味を抱いていた実業家でもあった。
執筆人には赤星直忠、磯貝 正、由比昌太郎等がいる。
赤星直忠は、当時の鎌倉郡正修小学校で教えている時に、亀田輝時と親交を結んだが、公私共に亀田が死去するまで交流は続いた。その鎌倉に奉職している間に、鎌倉中の「やぐら」の実地調査を行い、郷里三浦三崎に帰ってからも、三浦半島の「やぐら」、「横穴」、「洞穴」の研究に専念する。
昭和7年4月に同好者を集めて鎌倉史跡めぐりの会を開き毎月実地に歩き、見たり、聞いたり、話したり、調査した。時には遠く横浜の外人墓地にまで足を運んでいる。その詳細が雑誌「鎌倉」に掲載されるのである。
現在、発刊されている「鎌倉」は、昭和34年に沢 寿郎が編集発行人として刊行された。
亀田輝時は「鎌倉」の中で「鎌倉市制問題の話」「鶴岡八幡宮由比ガ浜大鳥居に就いて」「鎌倉史跡めぐり会記録」「鶴岡八幡宮古文書集解説」「由比ガ浜の今昔」等を執筆している。
最初に市制問題が浮上したのは昭和6年である。鎌倉町と最初に玉縄、続いて腰越、深沢が合併した。当時は鎌倉は、財政的に84万円余りの負債を抱えていたので、裕福な腰越が合併に反対したのである。鎌倉(小坂村)の人口6000人弱と腰越のそれは約5000人。当初は逗子と川口村(片瀬)をも包含する計画であったが、実現しなかった。
明治5年土地の人が由比ガ浜近くで、大鳥居の根と思われる古木を発見、好古趣味のある当時神奈川県県令陸奥宗光が、秘蔵していたものを奉納したことに由来する。
由比ガ浜には、悲話がある。古くは源 義経の妾、静御前の生んだ赤子が男児であったので、海岸にすてられる。又建保元年5月の和田義盛の乱の際、幕府方においてはその汀に仮屋を構え、敗亡せし義盛以下の首を集め、松明を取り首級を実験したという。しかし平常は武技の調達場もしくは船遊びの催しに当てられた。
亀田輝時は明治26年(1893)に鳥取県日野郡江府町に亀田平重の次男として生まれた。その三女藤尾が生田長江の夫人である。そう言う関係で、大正の初期に上京し、麹町の長江の家に同居して丸の内の鉄道省の下請工事会社「梅鉢車輪会社」に通った。戦後は昭和21年8月に「鉄道車輌工業協会」の再建中に心臓麻痺で急逝した。
1917年6月に藤尾が病没。生前の希望で鎌倉の長谷観音の裏山に埋葬された。1923年の関東大震災で生田長江は、家と蔵書を消失した。1925年には長江は鎌倉長谷稲瀬川の近くに移住した。数年前まであった「大海老」の裏のところで、由比ガ浜は目睫の所である。それより以前に亀田輝時は鎌倉二階堂に住んでいた。長江が鎌倉に来ると、亀田輝時は長江の家をよく訪れた。
創刊号に生田長江は次のような詩を寄せている。
冬の日
波の上の 鳥の白さよ 波の黒さよ 砂に曳く 影の長さよ 砂の冷たさよ
亀田輝時は、郷里の遺産を雑誌「鎌倉」の刊行と文化研究会の運営に注ぎ込んだ。そこから利益を生むということはなかった。今鎌倉の発掘調査をしておかないと、考古学的にも分からなくなってしまうという、鎌倉を愛する純粋な学術的見地から着手したのである。鎌倉の考古学の先駆的役割を果たした。義兄の生田長江と雑誌の装丁など色々相談しながら、作ったことは楽しい思い出だと記されている。