春日野 清隆
今年、平成14年の5月場所が始まった。さる文化財団のご招待で5月16日、両国の国技館に出かけた。
あいにくの曇り空で国技館のノボリも、何となく元気なく垂れ下っていた。
その昔、私がNHKの放送総局長だった頃、NHK盃を手渡しに東京場所(1月、5月、9月)にはよく通った。もちろん、蔵前に仮設国技館があった頃からだ。途中で両国に新国技館が落成し(その国技館を相撲協会は借入金なしで造りあげた!と当時大評判になった)その新しい場所で私はひきつづいてNHK盃を授与するため両国に年3回通った。
隅田川を渡ってくる風は1月、5月、9月でみんな異なっていた。1月はいかにも「初場所」という感じできびしい寒風だったが、1年の始まりをよろこぶ、さわやかさがあった。そして5月がやはり1年中で一番よい季節だった。青空をバックにしてはためく、力士ノボリは「夏場所」という名前にふさわしく「いいなア」と思わず口にしたくなった。
今回は曇り日で旗もダラリと垂れ下り、気のせいか、今の日本の不況をそのまま象徴しているようであった。
案の定、館内は入りが余りよくなくて二階席などは5割も入っていない。かっては「満員御礼」の垂れ幕が毎日下がっていたものだが、今は垂れ幕の下らない日が多いのだそうだ。
でも客席に坐って、土俵を見るのは楽しかった。場内の歓声や「アミニシキ!」とか「トチアズマ!」などというカケゴエがたのしかった。昔と違うのは、桝席に女性だけの姿もあり、又そこから高い声で「○○!」「××!」とか思い切りかけるソプラノのかけ声が大変多かったのもやはり時代だろう。
さて、そうやって相撲場の中で3時間近くをすごしていて、思い出すのはもと理事長の春日野さんだ。栃−若時代のことはテレビでしか知らない。本物の春日野さんに会ったのは、私が会長代行として東京場所にNHK盃を授与に行きはじめてからだ。
昭和57年の秋場所からである。理事長室にご挨拶に行くと、「ウン」とうなづいただけ。「機嫌悪いんだろうか?」と案内してくれた相撲担当のNHKの部長にきくと「いいえ。大体ああなんです。」
以後東京場所のたびに伺ったが、全く変らない。だがその目はだんだんやさしくなってきた。そして昭和60年に私は任期満了でNHKを退任した。退任のご挨拶にゆくと、「川口さん、ご苦労さん。相撲のためによくやってくれてありがとう!」とおっしゃる。「いいえ。仕事ですから、、、」そして何と春日野さんは送別会をしてくれる、というのだ。
当時のNHKの相撲担当だった国見昭郎君が「総局長、こんなことは今迄ありませんよ。理事長はあなたのことをとっても信頼してくれてる証拠ですよ!」という。
ありがたくお受けすることにした。
当日、お招き下さったのは柳橋の料亭だった。
春日野さんは「ほんとによくやって下さった。ありがとう!」とおっしゃる。
「いえ、国見君たち、現場が一生懸命ですから。私はそれにのっかってるだけです」
「いや、やっぱり上の人がやってくれるから下もやりやすいんだよなア」春日野さんはそういってくれた。
宴たけなわになって、春日野さんは大分ごきげんになっていた。座は、いつの間にか芸者さんも入り、カラオケになっていた。
相撲の人は歌がうまい。いい「のど」をきかせてくれる人が多い。NHKサイドは押され気味になった。「では、お礼の意味で下手な踊りを!」と私はしゃしゃり出た。例によって例の如く「鹿児島おはら節」である。
下手なおどりに、春日野さん以下万雷の拍手をして下さった。
そして次の瞬間、どっと拍手が湧いた。
「では川口さんにお返しを。オイ、三味線!」芸者さんが三味線をとり上げる。「奴さんだよ!」
舞台に上がったのは春日野さんだった。ユカタに着替えて尻バショリ、曲は「かっぽれ」「沖の暗いのに、白帆が見える。、、、、、、、、」
軽妙な踊りだった。
私のはそれこそ自己流のメチャクチャ踊りだが、春日野さんのは本式に「けいこ」をしたおどりである。我々NHK側はどっとはやし立て、万雷の拍手をした。
きけば、このごろ春日野さんはおどりなど全くなさってないとの事。私の顔を立てて返礼のおどりをして下さったのだ。
もうその頃から余り体調もよくなかったはず。それをこうやっておどって下さった元、名横綱栃錦、現相撲協会理事長、春日野清隆さん、あの茫洋とした風貌のかげに、こんな繊細な心づかいがあったのだ。
なるほど!この細かい配慮があったればこそ、国技館の無借金建設などという大変な事業が見事に出来上ったのだ。
大胆にして細心。きびしいがあたたかい。その春日野さんのありし日の温顔を思いだしながら私は土俵を見つめていた。