春日八郎
「御三家」ということばがある。徳川幕府の尾張、紀伊、水戸の三藩主をいったものだが、のちには「00の御三家」と芸能界でもいわれるようになった。
一番有名なのは橋幸夫、西郷輝彦、舟木一夫の御三家であるが、そのあとも新ご三家など若手の俊英スタ−を呼ぶ時に時に使われた。
私がテレビの仕事を始めた頃の歌謡界の若手三羽烏といわれたのは春日八郎、青木光一、三浦 一の三人であった。昭和28(1953年)頃のことだ。この三羽烏がのちに「御三家」となるのである。
春日八郎は下積みが長かったが、「赤いランプの終列車」がヒットして注目され始めていた。私が始めて「歌の花束」なる歌謡番組に出演してもらった時は、魅力的な「新人現わる」と注目され始めた頃である。お昼のナマ番組だったから、リハ−サルは午前9時半だった。早くから準備してまっているが他の人は揃ったのに、春日だけ来ない。
内幸町の放送会館、2階のスタジオでイライラして待っていると、ゴメン、ゴメンと汗をふきながら春日がやってきた。「どうしたの?」「キングレコ−ドから歩いてきたら、やっぱり遠いなア。15分余分にかかちゃったよ」
キングレコ−ドは文京区の音羽町にある。歩くには少々どころか大変に遠い。あとでコッソリ聞くと、「電車賃が足りなくてネ」と彼は頭をかいた。
ヒットし始めたとはいえ、まだ春日は新人だった。ホントに電車賃がなかったのか、あるいは他の理由なのかそれは分からない。
しかし、朝の空気の中を汗をふきふき、音羽から歩いてきてやっとリハ−サルに間に合った春日の顔を忘れない。
春日八郎、福島県、会津、坂下町の出身。人情に厚い男だった。高い声に魅力があってこれは必ず大物になる!と思った。果たせる哉、翌29年には「粋な黒塀の見越しの松、、、、」の「お富さん」が大ヒットとなった。
お富さんの大ヒットはそれ迄の春日をガラリと変えた。彼はアットいう間にスタ−になった。たった一年足らずでヒット歌手の頂点に立ったのだった。
頂点に立ってからも彼は態度を変えなかった。いつも素朴だった。しかし外面はドンドン変って行った。もはや音羽から歩いてくる必要はなかった。着るもの、乗るものがあっという間に豪華になった。彼は競馬にも熱中した。スプリング、エイト、彼の持ち馬だ。
春日の「春」と八郎の「八」である。何という素朴な命名だろう。
「春日さん、もっとシャレタ名前つけなさいよ」私がいうと、「いや、これでいいんだ!」と彼は笑っていた。
アッという間に大スタ−になった「春日八郎」の名を彼は誇りに思ったのであろう。
春日のマネ−ジャ−を武蔵さんといった。彼はこの人に殆どすべてを頼り、任せていた。二人の間には本物の兄弟のような親しさが流れていた。
今、武蔵さんの娘さん武蔵祐子さんが、NHKなどの料理番組の時間に出ておられる。彼女の出演の番組を見るたび、ああ世代は変った、と実感する。
尚春日と並んで御三家の名をつけられた三浦 一はやがて吉田 正さんに次々と名曲を書いてもらって、大歌手になった。春日「お富さん」と並ぶ三浦の大ヒットが「弁天小僧」だったのもなつかしい。
青木光一は「柿の木坂の家」でスタ−になったが、今は日本歌手協会の副会長として信頼を集めている。いかにも兄貴分という風格である。時々会うと50年前のあの若々しい笑顔が蘇えってくるから不思議だ。
三人の中では一番元気で健康そうだった春日さんが一番早く逝ってしまった。残念である。