虹の島から(1)

何とも賑ヾしい紅白歌合戦で1999年を送って、ちょっと改まって2000年を迎えた。

紅白も第50回ということであり、併せて百年紀の終わりというので、多少は覚悟はしていたが、ほんとに「紅白」は何から何までにぎやかつ゛くめであった。

1953年(昭和28年)暮の第4回からこの番組を担当し、アシスタント。PD(プログラムデイレクタ−)CP(チ−フプロデユ−サ−)。審査委員長(番組制作局長)。大会委員長(放送総局長)。そしてNHK会長としてほヾこの50年を紅白とともに過ごしてきた一人としては感慨無量にならざるを得ない。

午後7時半から始まったこの番組を深夜のカウントダウンとやらまでおつき合いしたら、相当くたびれた。

なにしろ派手な舞台である。多彩な照明にいろどられて絢爛たる衣装が舞う。近ごろはやりのリズム過度の音楽が耳をつんざく。何をとり上げても、あの50年前の紅白の面影はもはやない。

派手な影像に目を奪われいる間、にふっと我に返ると、私の脳裏にはこの50年をいろどった人たちの面影が浮かんできた。

華やかな歌手の面々、指揮者の風貌、そして色んな形で登場してきたコメデアン、踊り子たち。

だがそれらを飛びこして私に強烈によみがえってきたのは、やはり司会者の皆さんのことであった。

藤倉修一、宮田 輝、高橋圭三、山川静夫といった名アナウンサ−の一人々である。更には破調のアナウンサ−としての鈴木健二の存在や、福士夏江、本田寿賀といった女性アナウンサ−のことも思い起こされた。

外部の司会者としては、中村メイコ、黒柳徹子、森 光子の名がまず浮かんでくる。次いでは歌手兼任で司会をつとめた美空ひばり、水前寺清子、佐良直美のことがある。そうそう若かった九重祐三子にもやらせたっけ。男性側では何といっても堺 正章と古舘伊知郎に指を折らざるを得ない。

紅白においては、出場歌手の存在が勿論根幹であるにきまっている。だが歌手と並んで殆ど同様の価値づけをされるいるのがこの司会者なのである。この番組がただの歌番組でないのも、司会者の存在の大きさによるものであろう。

虹の島から(2)

紅白が終り、年が明けて、例年の如く龍口寺を初め近くの寺々へ初詣をした。それから親戚の皆々と正月の膳を囲んだ。一通りの正月の行事が終ると、早くも一月六日になっていた。この日は私が会長をつとめる財団の催しで「日本のきずな」というのがあった。

すっかり日本の伝統文化ばなれをしてしまった現代の人たちに「古きよき日本のもの」にふれていただきたいという主旨で一昨年から実施している。

今回のテ−マは「日本のしらべ」というので、子守唄や民謡など伝統的なメロデ−の紹介から入って本場九州の「ひえつき節」や「博多子守唄」など今も人々に愛されている歌を聞いてもらった。

つづいて新内の流しが入ってくる。曲は有名な「明烏」である。今新内の第一人者として活躍の新内仲三郎さんとその娘さんの二人にたっぷり「蘭蝶」を語ってもらう。

ついては場内から「エンヤ−エ−」のかけ声とともに江戸火消しの伝統をもつ「江戸消防組」の皆さんで、木やりを一くさり。

木やりの後は長唄だ。今藤長十郎さん(といっても今の家元は女性である)を中心に曲は「松の翁」

ラストは沖縄から御呼びした照喜名朝一さんの沖縄の民謡だったが最後は場内一緒になっての安里屋ユンタの大合唱。

狭い会場だったが(明治記念館)七百五十の席はぼぼ満席。「年の始めにいいものを聞いた!」と皆さん御満悦だった。

日本の伝統芸術はやはり、見ず嫌い、聞かず嫌いが多い。

ちやんとした解説をつけて本物の演奏をやれば、「いいものだなア」と思っていただけるのである。このシリ−ズはこれからもずっと続けることになっている。

さて、そういう正月を過ごして翌七日には早くもJALに乗ってハワイへ飛んだ。

私には一年ぶりのハワイだが、冬の日本から飛んで来ると、やっぱりさわやかでいい。

ここにはNHKのアナウンサ−の大先輩、志村正順さん(スポ−ツ)と藤倉修一さん(紅白初代司会者、二十の扉や街頭録音で有名)がいらっしゃる。

ハワイは今年は少々寒いようだ。といっても二十度前後。やはりいいところだ。

虹の島から(3)

このハワイ諸島の一つがオアフ島で、ここには、あのワイキキ海岸で有名なホノルル市がある。先輩に迎えてもらって、ワイキキ近くの四十三階建のコンドミニアムに入る。

緑の椰子、澄んだ空気、そして真っ青な空といきたいのだが、今年はどうもちょっと違う。電話できいた日本の冬も今年は相当に激しい乱調子らしいがハワイも珍しく連日の雨である。

ただその雨の前後、空にはきれいな虹が出る。ある時は東の山にかかり、ある時は高層ビル連立する市街地の真上にかかる。日光の強いせいか、ここの虹は幅が広く色も鮮やかである。

土地の日本語ラジオ局の放送を聞いていると、「皆様、如何御過ごしですか。虹の都ホノルルのXXX放送局から御送りします」などとアナウンスしている。

「東京ラプソデイ」という歌の各節のリフレインは「たのし都、恋の都、夢のパラダイスよ花の東京」というのだがこちらで言えば、さしずめ「虹の都、椰子の都、夢のパラダイスよ、花のホノルル」と言うことになろうか。

さて、そのハワイに来て折りから初場所の実況放送をかっての名相撲アナウンサ−志村正順さんと御一緒に見、聞くことになった。

東京ハワイ間には五時間の時差があるので、中入りが終って、幕の内の取り組みの始まる午後四時半頃が丁度ハワイの九時半になる。

この時間になると私はソワソワしながら、三十三階の自室を出て四十階に向かう。四十階の四〇二〇という室が志村さんの御部屋だ。

「いらっしゃい!」と喜美江夫人が迎えてくださる。二人ともアルコ−ルが駄目なので、お茶をいただきながらのテレビ観戦である。

この場所は、若乃花と武蔵丸が欠場していささか淋しくなったが、復調した曙をめぐって武双山、雅山、千代天山、旭天鵬 など若手が激しい優勝争いとなってなかなか面白かった。

その勝負を見ながらのかっての名アナウンサ−の片言隻句がもっと面白かった。

「若いアナウンサ−は一本調子でいけません。もっと緩急をつけて気分を盛り上げなければ」とか「いまのは相撲に勝って勝負に負けた典型です。でもこの力士は今に強くなります」一々もっともだった。