英語辞書の名人=河村重治郎

「よく生き、よく働き、よく世に尽くした 」と言う辞世の句碑が、鎌倉 稲村ガ崎の民家の一隅にある。ここは 河村重治郎の終の棲家である。河村重治郎と言うよりは「クラウン英和」(三省堂)や英和大辞典(研究社)の編集主幹のと言った方が分かりやすいであろう。この人ほど英語の辞典に深く長くかかわった人は、いないのではないか。また死の床にあっても、辞書の原稿の事が念頭を去らず、休みなくペンを握っていた。文字どおり英語の辞書に、捧げた悔いない一生であった。それが死去する前日に書かれた辞世の句に如実に表現されている。

辞書を編集するには一人では出来ない。多くのスタッフが協力して完成するものである。それを総括して、一人ないしは数名の著名な学者の名を冠して世に出すのである。昭和2年に新英和辞典(研究社)が岡倉由三郎の編集主幹で出版された。世に言う岡倉英和である。研究社はこれによって、それまで英語の辞書でリ−ドしていた三省堂と肩を並べるようになったのである。この時の編集スタッフに加わったのが、河村重治郎が辞書作りの始まりである。その後昭和10年に、三省堂から中学初年級向けの辞書[学生英和辞典]を出して初めて知られるようになった。当時は中学一年から五年まで使える辞書が主流で、低学年だけを対象にしたものはなかった。それだけに出版社側としては勇断を迫られた訳だが、これは河村重治郎の一つのポリシ−を示すものである。

この事は河村重治郎が、独学で検定試験を受けつつ、英語をマスタ−した経験を持った事と無縁ではなかろう。河村重治郎は、語学は最初がいかに大切であるか、そして初心者にはどんなに難かしいか、骨身に染みて知っていたに違いない。そして最晩年に中学生をひざ突き合わせて教えたいと言い、最後に編集した「学習クラウン英和」にも引き継がれている。そして英語上達について「一にも練習、二にも練習です。練習より上達する道はありません。」と述べ、辞書を手垢のつくまで使い込む事を英語初心者に希望している。

河村重治郎は明治20年 秋田県に生まれた。秋田中学を5年で中退し、一家と共に上京、小、中学校の教員免許を検定試験のよって取得した。又大正9年に第一回高等学校教員検定試験が行われ、それに合格している。福井中学に赴任している時である。福井における10数年は河村重治郎にとって色々な意味で重要な時期である。結婚し、昼間福井中学で教鞭をとる傍ら教会活動の一端として、夜間に青少年に英語を教える。その時の教え子が終生、辞書編集の協力者になる。この時代は最も勉強に打ち込めた時代ではないかと思われる。学歴がなくても、この制度によって旧制高校の教師の資格が、得られる道が開けた。それだけに最も難関とされていた。その後横浜高商(現横浜国立大)が創設された時に教授となる。この時代に本格的に辞書編集の仕事にかかわるようになった。

昭和28年に出版された新英和大辞典三版(研究社)は、河村重治郎と岩崎民平が編集主幹で編んだものであり、日本の英学会の壮挙として此れ迄にない完備された辞書として賞賛された。明治 大正にかけては、斎藤秀三郎の辞書が広く読まれたが昭和になってこの二人が加わり、ほぼ英和辞典は集大成されたと言ってよいのではないか。河村重治郎は人生の後半はただひたすら辞書ずくりに没頭した。職人の如く、くる日もくる日も決まった時間机に向かって倦む事がなかった。若い頃は釣りとカメラが趣味であったが、中年以降はそれも廃し、酒、タバコは嗜まず辞書一筋であった。死の間際には指が思うように動かなくなったのでペンを輪ゴムで指に結わいつけてまで書き続けた。

現在は大辞典がいろいろの出版社から出版されていて、ある点では欧米の辞書より便利なまでに成長している。が第二次世界戦争中も間断なく辞書編集を続けていた河村治次郎らの努力があったことを忘れてはなるまい。英文学研究も完備した辞書の上に成り立つのであって、そうでなければ本当に優れた成果は望むべくもない。

河村重治郎は生来、寡黙であり他者を誹謗したり、陰でも非難する事はなかった。人格的にも立派であった故に、重治郎に親炙した人の中には自分の両親についで尊敬すると言った人もいた。生涯、辞書編集を共にした協力者や高弟にも恵まれたのは、重治郎の人徳の賜物であろう。河村重治郎は1974年に86歳で死去したが、現在でも重治郎の編集方針を踏襲し、高弟が共編の形で生命を保っているのはめでたい。死してなお辞書を残したと言うべきであろう。

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