高橋圭三

 4月11日、高橋圭三さんが亡くなられた。享年83歳だった。電話で知らせてくれた私の古くからの友人は、「川さん、圭三さんがなくなったよ。知ってるかい?」といってきた。「ああ、知っているよ」と言葉少なく答えると、「もう一ぺん元気になってもらって、どうも、どうもを聞きたかったね!」という。

 病に倒れて入院されてから、我々はお見舞も遠慮していた。ご家族の話を聞くと、「もう何も話せないんです。語れない圭三では失礼ですから、お見舞いはご遠慮申しあげます」ということだった。

 あの明るい、あの客好きな、あの明快なオシャベリの圭三さんがこれで完全に、我々のところから去ってゆかれた。惜しいなあ。もう一度ステ−ジに立ってほしかった。つくづくそう思った。

 高橋さんと私が初めてお会いしたのは、50年近い昔のことだ。NHKテレビが始まったのは昭和28年(1953年)だが、3年前の25年に私はNHKに入って福岡放送局のラジオを担当の(といってもまだテレビはない頃だ)若いデレクタ−であった。テレビの開始に伴って人事異動があった。テレビジョン局、芸能部勤務とするという辞令だった。

 少々固くなって芸能部長の安藤さん(この人は、幸田露伴の血筋を引くお方だが東大の美学を出てNHKに入られた)に挨拶すると、「川口君、キミ音楽班!」といわれる。てっきりドラマ班と思っていた私は「私、、、あの!私オンチなんです。楽譜も読めません」といった。「なにい、音楽が出来ない。出来ないからやるんだ!」とニベもない。

 以来私は不得手な音楽番組に12年間タッチするわけだが、今考えてみると、それは却って私にとってプラスとなった。

 テレビの音楽はラジオの音楽とは明らかに違うのである。つまりラジオでは音−音楽という流れですべて終ってしまう。音楽を音として捉え、音の表現が音楽なのである。ではテレビは?テレビでは必ずしも音だけが音楽のすべてではない。その音を作り、演奏し、指揮している人間も又音楽の一部なのだ。映像で表現されている画面も又、音楽というものを構成している大事な要素なのだ。

 そう考えてラクになった。

「黄金の椅子」という番組はその一つであった。テレビの場合、音楽以外のものが番組と構成する大きな要素となった。顔も手も動きも話も又、音楽番組の大事な構成要素となった。

 圭三さんは、ラジオ時代に「私は誰でしょう」で一躍有名になった。そしてテレビが始まって、昭和30年に「私の秘密」で大スタ−となった。

「事実は小説より奇なりと申しまして、、、」というアナウンスで始まる「私の秘密」はテレビの大ヒット番組の鏑矢である。この番組で圭三さんは日本中誰知らぬものはなくなった。私は音楽班だったから当然「私の秘密」とは何の関係もなかった。ところがあったのである。「私の秘密」は毎週月曜の午後7時半からだった。そしてそのあとに公開歌謡番組「歌の広場」があった。私の番組は火曜日8時からの「黄金の椅子」だったのだが、何しろ当時は職員の数が少ない。私は月曜の「歌の広場ではAD(アシスタントデレクタ−)の役目だった。従って毎週自分の番組の前に、高橋さんの「私の秘密」をたっぷり見ることになった。

「私の秘密」が終って30秒、その間に「秘密」のセットを飛ばして(片づけることをトバスといった)「広場」のセットに代える。歌の広場のテ−マ音楽始まる−という具合である。

 毎週、毎週「私の秘密」を見ているうちに、高橋圭三というたぐい稀な司会者の話術だけでない全人格的なパ−フオ−マンスにいたく感動した。「これは素晴らしい天才だ!」

 この天才を歌の番組で使えないか?私はそう思った。勿論、レギュラ−で出てもらうわけには参らない。「特番だ!」私はひそかに胸躍らせてそのチャンスを待った。

昭和32年の冬である。

「寒さにめげず働く人々におくる音楽会」この長い長い題名が私の提案だった。内幸町にあったNHKホ−ル(勿論、今のNHKホ−ルとはくらべものにならない。800人の中ホ−ルだった。が音響効果は抜群に良くて使い易い、いいホ−ルだった。)

 このNHKホ−ルをキ−として全国の働く人々を結ぶ音楽会!そして司会は高橋圭三!これが私の狙いだった。

 この番組は相当、高い評価をうけた。全国各地で働いている人々、炭坑の中があった。うなぎ屋さんがあった。製鉄所の溶鉱炉があった。折りから始まっていた、昭和39年の東京オリンピック用の地下鉄工事現場があった。

 テレビの中継網はこれらの現場をナマで生き生きと結んでくれた。そこで働く人々と総合司会の圭三さんの会話は、軽妙さとひたむきさと、明るさと重さの交じり合った、すばらしいものになった。

 ナマだったから終ってから圭三さんを囲んで反省会をやった。テレビという文明の利器を使って人々の心を結ぶ!というコンセプトに皆興奮していた。大好評だった。

 好評にこたえて、「寒さにめげず」「暑さにめげず」と年2回、6回も実施した。「やはり高橋圭三さんだ!!」私は心の中でそう叫んだ。そして拍手を送った。

 この番組をやってから、圭三さんとはすっかり意気投合した。紅白歌合戦も圭三さんの司会、私のPDで何回もやった。印象に残っているのは、昭和36、37、38年の3回である。

この3回は、圭三さんと中村メイコさんの組合せで実施した。

 素晴らしい掛け合いだった。見事な舌戦とパフオ−マンスだった。

 紅白の、視聴率の最高記録は昭和38年暮の84.1パ−セントだが、翌年にオリンピックを控えて人々の意識の高まりもあったからだろうが、私は、メイコ、圭三、両氏の火花を散らす名司会の故だと信じている。

 圭三さんはこれを最後にNHKを去ってゆく。フリ−となって活躍の場を広げた。何度か「レコ−ド大賞」の司会として、紅白とぶつかり合った。

 のちに、圭三さんは参議院にうって出た。そして最高点で当選された。かくして私との間も遠ざかっていった。圭三さんと再度親密になったのは私がNHK会長になってからである。

 会長という仕事は、国会との関連が極めて多い。そんなことの未経験な、しかも不得手な私だったが、圭三さんは、そのことをよく分かってくれて、事あるごとに有益なサポ−トをして下さった。

 4月16日、葬儀が行われた。私は弔辞を読んだ。感謝を捧げても捧げても足りない気がした。

 式のあと代々幡斎場で荼毘に付された。私は、ご遺体がカマに入るまで見送り、1時間後、お骨に対面した。

 あの明るいキサクな圭三さんはもうなかった。「どうもどうも。ホントにありがとうございました!圭三さん」思わず私は圭三さんのお得意のフレ−ズをしゃべっていた。